68 ローマングラス
銀化の美しい、かわいい形のローマングラスです。花はアマドコロと欅の枯葉です。栗八の屋上では毎年アマドコロが群生して咲いてくれますが、秋から冬にすべてが枯れて、多くは猫たちに踏まれて根元から折れ、土に還ってしまいます。挿したのは踏まれずに残った一本です。
欅はかつて隣家の庭に、樹齢100年以上と思われる大樹がありました。大きな繁りは六本木三丁目のランドマーク的な存在でした。家は戦後に建った簡素な平屋で、Kさん(ローマ法王の研究者の方)がお一人で住んでいました。ハナちゃんと云う、おとなしくてかわいい雑種犬が庭に放し飼いにされていて、栗八の猫たちと戯れたりしていました。猫たちは、Kさん家の屋根に登って日向ぼっこや昼寝をしていました。
ハナちゃんが亡くなり、しばらくするとKさんが、「老人の施設に越します」と挨拶に来られました。その後、しばらくは空き家のままだったのですが、地主である寺がマンションを建てることになり、家は取り壊され、欅の大樹もチェーンソーでバラバラに切られ、根は掘り起こされ、何処かへ運ばれて行きました。樹齢100年の大樹は解体家屋の産業廃棄物として処分されたのでしょう。夏には小路に木陰をつくり、秋にはゴミ袋いっぱいになる落ち葉が毎朝散り積もっていました。欅がなくなり、落ち葉を掃き集める楽しみもなくなりました。六本木三丁目の変化を静かに見つめてきた大欅より、土地の有効活用を優先したのでしようが、何とも寂しいことでした。
ローマングラスに挿した小枝は、その大樹から落ちた実が栗八の裏で芽吹いたものです。ある日、何とも頼りない細長いひと枝が伸びているのに気がつきました。引き抜くには忍びなく放っておいたのですが、今ではしっかり根付いて幹も太くなり、枝葉も増えて、小路にまだらな日陰を作っています。
小山さんのこと その3
径30センチを超える、厚い緑青に覆われた銅盤に、右足を上げ右手に三鈷杵をふり上げる蔵王権現が彫られた見事な鏡像です。拡大鏡で見れば、力強い鏨の蹴り彫りです。「金峯山?」と訊くと、「じゃ、ないの?」と小山さん。奈良で蔵王権現と云えば、藤原道長で有名な吉野金峯山経塚です。「すごい」の言葉以外に出てきません。そんな私を見て小山さんも満足そうです。
金峯山経塚は古くに発掘された品が散逸し、蒐集家の元に収まっていたものがまとめられ、戦前(昭和12年)に『金峯山経塚遺物の研究』と云うタイトルで、帝室博物館(国立博物館の旧名)より厚い図録が発刊されています。それにより、厖大な規模の金峯山経塚の一端を知ることはできたのですが、出土遺物の現物を見ることは稀で、懸仏や鍍金金具の残欠等が時折「金峯山」と云われて市場に登場してくる程度でした。錆びてはいても蔵王権現の鏡像一面、大きさがあり、欠けもありません。これを見せられて唸らぬ仏教美術の蒐集家はいないでしょう。「欲しい……」と思ったのですが、どう見ても私の稼ぎで買える品ではありません。以後も小山さん宅を訪れる度に、新たな蒐集品を見せてもらったあとは「あれを……」とお願いし、件の鏡像を見せてもらっていました。前の訪問からしばらく間の空いたその日も、鏡像を出してもらいました。蓋を開け、鏡像が現れても、不思議なことに心が動きません。あれほど見る度に「すごい」「欲しい」と沸き起こっていた気持ちが失せています。
好みの骨董は何年経っても新鮮で、箱から出す(見る)度にしみじみと「良いな〜」と思えるものです。良いものは、月日を経ても見飽きることはありません。しかし、久しぶりに見た品で心が動かなくなった経験を、私は何度かしています。目にした途端に「良いな〜」とは別の思い(違和感)が広がるのです。この思いが生じた品は、高い確率で贋作(贋物)であることが多いのです。熱から覚めたように感動が消えるので、「何で?」「どこが?」とその根拠を探ってみるのですが、明快な答えには出会えません。ただ、モノが持っていたはずの魅力(良さ)が消えているのです。云うなれば、それまではモノの上に、幻の「何か」を重ねて見ていたことになり、その「何か」が消えた証でもあります。自身の蒐集した品であれば、ガッカリはしますが諦めもつくのですが、人の品となると、そうもいきません。まして、あれほど私自身が称賛していた鏡像です。無言のまま箱の蓋を閉じ、小山さん宅をあとにしましたが、生じてしまった違和感が私の中に重い課題として残りました。
その後も訪問の度に鏡像は気になるのですが、あえて見せて欲しいとは頼まず、帰路についていました。「そう云えば……」と久しぶりに鏡像を見せてくれるように頼んだのは、違和感を感じた日から1年近く経ってからのことでした。箱を開けて確信した私は、「これはダメかも知れない」と鏡像を前に呟きました。すると小山さんからは「だろうな〜」と意外な返事です。顔をあげた私に、「そんな気がしてた」と言うのです。で、「なんか見る気もしなくなった」と……。
小山さんは、気に入った蒐集品に関してはとことん眺めては調べ、味わい尽くすタイプです。味わい尽くしても尽くしきれぬ魅力のある品々を、座辺に置いて愉しんでいました。それらは高額な仏教美術品に限らず、かわいい人形や瓦の欠片、絵唐津の陶片であったりしました。その小山さんが「見る気がしない」とは……。
「いつ分かったの?」と訊ねると、「もうだいぶ前だな〜」とサバサバした表情で応えます。“あまり骨董のことに詳しくない”と評された小山さんですが、数年のうちに、私など及ばぬほどの(骨董を見る)眼を身につけていることを知らされた出来事でした。
件の「鏡像」は、数年後に骨董屋となった私が小山さんから預かり、売却してきました。「いくらでも……」と笑って渡されたのですが、思いのほか高く売れました。その後、別の市場で「鏡像」に再会しました。その時は「何でこれに……」と、あの日興奮した自分自身を可笑しく、懐かしく感じたものでした。以来、あの「鏡像」には出会っていません。
*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
https://store.kogei-seika.jp/