24 布薩形水瓶
屋上の蠟梅で、春の野花に先駆けて咲いてくれます。プランターですから、そう大きくは育ちません。枝も花も少なく、花材として切り取る気にはとてもなれないのですが、今年は枝の1本が枯れかかり、根元に少しだけ蕾をつけていました。枯れるなら……と、切らせてもらい、布薩形水瓶に活けてみました。小さい数個の蕾ですが、微かな香りが立ちました。
日本映画学校のこと 今村昌平さん その3
横浜駅に隣接する古いビルの一角にあった今村昌平の私塾(横浜放送映画専門学院)は、受講生も少人数で、知名度も低く、宣伝費(広報)として捻出できる予算もわずかでしたので、告知効果もまた知れたものでしたが、沼田さんから全幅の信頼を得た私は、何とか生徒の獲得へ繋げようと、試行錯誤を繰り返しながら広告を作り続けていました。
その中で見えてきたのは、苦労して私塾の経費を捻出し、時間を作っては自ら実習を指導し、若き映画人を熱心に育てながら、映画制作(次作)の金策まで自ら行なっていた今村昌平(今平さん)の姿です。それが、巨匠と呼ばれる今村昌平の現実でした。
そんな今平さんに幸運が訪れました。『楢山節考』のカンヌ映画祭グランプリです。前後して、横浜放送映画専門学院にも幸運がやってきました。小田急新百合ヶ丘駅前に校舎を建て、今平さんの運営する学校へ無償で提供してくれると云う大恩人が現れます。土地も初期の設立資金も提供するが、運営には口をはさまないと云う恩人は、小田急電鉄本社と、それをバックアップする当時の川崎市です。この事実はほとんど知られていませんので書いておきます。
カンヌ受賞から3年後、新百合ヶ丘に、待望の、映画や演劇を学ぶ学校「日本映画学校」が誕生しました。生徒募集のポスターは、小田急電鉄の駅構内(広告スペース)が無償で提供されると云った厚遇で、定員に対して数十倍の応募が集まる熱狂の中で、日本映画学校はスタートを切ることができました。以降、今平さんが亡くなるまで、日本映画学校との長い付き合いが続きました。
−余談−
最新の映像機器やスクリーンを備えた日本映画学校、そこで学ぶ生徒も増え、宣伝費も広告を出す媒体も増えて行きました。私も映画学校へ通うことが多くなりました。校内は創作を学ぶ生徒と講師の熱気に包まれおり、学校全体が唸るような喧騒の中にありました。シラケ世代と云われた若者たちが、ここでは全エネルギーを傾注して交わり、映像や演劇を自らの手で作り上げていました。
当時、私の娘は新潟の商業高校生でしたが、卒業まで将来の希望が決まっていませんでしたので、迷わず日本映画学校への入学を薦めました。将来映画に携わるかどうかは別として、あの学校の熱気に触れて欲しいと思ったからです。無事に合格した娘は編集を専攻し、今は予告編の編集者をしています。
店で働いている橋本くんは脚本科の卒業生。ちなみにウッチャン・ナンチャンは俳優科の漫才授業から生まれたコンビです。彼らも私の作った広告やパンフレットを見て応募してくれたのでしょう。今村昌平の創った日本映画学校は、日本映画大学となって存続しています。
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