58 珠州耳付大壺





能登半島の黒陶珠州大壺(鎌倉時代)に、茶碗蓮と、長く伸びた猫じゃらしです。能登で発見された黒陶の窯跡が「珠州」と命名されたのは、戦後もだいぶ経ってからのことです。珠州壺は、能登半島に点在する古い墓地や、親不知を越えた上越等の寺内からも発見され、かつては「幻の黒陶」とも呼ばれていました。福井(三国町)在住であったアンフォルメの画家小野忠弘氏は、以前よりこの黒い壺を蒐めており、『平安地下陶器−寂寞人間の終熄物』と題した著書を遺しています。氏は熱心に能登半島を巡り、黒い壺を蒐め、やがて珠州と呼ばれるとになる黒陶を世に知らしめた貢献者のひとりとなりました。

茶碗蓮も猫じゃらしも屋上に咲き、普段は夏の風に吹かれています。今回、撮影のために切りましたが、数本しかない蓮なので切る時には勇気が要りました。背の高い猫じゃらしを添えてみましたが、出来上がった写真を見て、猫じゃらしは要らなかったと思いました。猫じゃらしを添えたのは、蓮と云う特別な花をいけることへの、私自身のテレ隠しだった気がします。




サイトウさんのこと その1


一二三美術のサイトウさんから電話をもらったのは、今から十数年前、季節が夏から秋へと向かう頃のことです。

「癌になりました」

「えっ」と聞き返す私に、「もう、仕事はできそうにありませんので、持っているものを今のうちに手放そうと思います。ついては以前に高木さんから買わせてもらった二月堂の軸を買い取ってもらえませんか」と云う話です。「すぐに行くよ、詳しい話はその時に……」と伝え、訪問の日時を約束して電話を切りました。サイトウさんの正確な年齢を知りませんでしたが、私よりだいぶ若かったと思いますので、まだ40代だったでしょう。「もう骨董屋はできない」「店も閉める」と電話口で言う彼の真意を図りかね、しばらくは呆然としていました。

約束の日に、森下の自宅に構えたサイトウさんの店を久しぶりに訪ねました。よく晴れた日で、彼は笑顔で私を迎えてくれました。少し痩せたかな……と云う印象でしたが、やつれもなく、「店を閉める、骨董屋をやめる」と云うほどの重病にはまったく見えません。

二月堂の軸はすでに用意されており、私が買いたい値を伝えると、「イヤ、そんなに……」と彼は遠慮してくれましたが、「また売れるし、それで買わせて」となかば強引に支払いを済ませてひと息つくと、サイトウさんの方から自身の癌について語り始めました。

おしっこの出が悪くなり病院へ行くと、胃の癌が進行しており、内臓の各所(腸や膀胱付近)にまで転移し、大きな腫瘍になっている……。もう外科手術で摘出できる範囲を超えており、抗がん剤治療で対処するしか手がない、との話です。今年の夏は入院して治療していましたが、体調も少し戻ったのでこれからは通院しながら治療を続けます、と……。

話を聞いて慰める言葉もない私に、「なので、もう店も閉めるので全部売ってしまおうかと……」と続けます。「皆んな売っちゃうの」と訊くと「売れるかどうかわからないけど、集芳会とかで売らせてもらって良いですか」と言うので、「もちろん良いよ」と伝えました。「とりあえず、数人の知り合いに、買ってもらえるか声をかけてみようと思います」と続けるので、「俺も買って良い?」と訊ねると「何でも買ってください」と、なかば諦観と云うか投げやりな笑顔が返ってきました。

サイトウさんの傍の小棚に、数個の唐津盃が並べられていました。手に取ると傷や直しはありますが、筒盃も山盃も斑唐津も、どれも皆使い込まれて良い肌味となった佳品です。「これは(幾ら)?」と尋ねると、しばらく考えて、それぞれに売り値を示してくれました、真っ当な値と云うのも変ですが、どの盃も利の出そうな価格です。「全部買うよ」と伝えると、ちょっと驚いた顔をしましたが、脇から包装紙を取り出して包み始めました。1個目を包み終わらぬうちに、「高木さん、やっぱりもうしばらく持ってて良いですか……」とこちらに顔を向けぬまま、手を止めて言います。「だってもうお酒は飲めないでしょ」と応えると、「そうなんですが、スイマセン」と苦笑いしています。「まぁ良いよ、持ってな」と伝えると、ほっとした表情で手の中の盃を元の棚に戻しました。

「まあ、元気で」と伝え、二月堂の軸を抱えて店をあとにしましたが、あの唐津盃への執着があればサイトウさんはまだ大丈夫と、来た時よりも私の気持ちは、少しですが軽くなっていました。



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*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
https://store.kogei-seika.jp/

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