30 古いボーリングの球
買った時に、どこの国のものか訊くのを忘れましたが、欧州で、ボーリングの原形の様な遊びに使われた球(木製)だそうです。丸太を削って作ってあり、手に持てばずっしりと心地よい重さが感じられます。「時の重さ」と云えば、何だか安っぽい詩の様ですが、「時」に重さがあるとすれば、この球に宿る数百年はこの位の重さなのでは、と思える重みです。木の枯れ具合も好ましく、持ち帰ってきました。
次々と伸びては花を咲かせていたカヤツリソウを、1本抜いて穴に挿してみました。私には、止まっていた球の時間が、再び動き出した様に感じられました。
小林正樹監督のこと その6
下関で、設計士と私を待っていたのは、すでに到着していた小林正樹監督とマネージャー、プロデューサーの3名、そして下関の、田中絹代ファン倶楽部の方々でした。
下関は田中絹代さんの出身地ですので、ファンクラブがあってもおかしくはないのですが、その情熱の高さは特筆すべきものがありました。私自身の中では、田中絹代さんはすでに過去の大女優(伝説の人)で、倉本聰氏のテレビドラマ『前略おふくろ様』の、ショーケンの母親役程度の認識でしたので、記念館建設にかける面々の熱い想いに、いささかたじろいでしまいました。
最初に案内されたのが、記念館建設予定地です。そこは閑静な住宅地にある空き地で、記念館建設に十分と思える広さがありました。もう誰か忘れましたが、毛利家と縁の人の邸宅跡で、当時は下関市に寄贈され、下関と関連のある施設(建造物)を市が建てることで話がまとまっているとのことでした。
設計士は敷地を測り、地盤を確かめ、辺りを写真に撮っています。近所の住民が遠巻きに、この十数名の集団を眺めていました。私は、その人たちの目や態度に、好奇心だけではない、棘の様な視線と冷淡さを感じていましたが、誰ひとりその視線に気付こうとはしていませんでした。あるいは気づいていても、無視していたのでしょう。
予定地の下見を終えて、ファン倶楽部の方々が準備してくれた会議室での打ち合わせが始まりました。私はその中に下関市の担当者がひとりもいないことが気になりましたが、記念館実現に取り掛かかる一歩を踏み出し、熱い想いでいる皆さんの会話は、具体性のない夢の様な話に終始するばかりでした。
この様な私の捉え方は間違っているのかも知れませんが、長府藩重鎮の武家屋敷跡に、戦前からの大女優とは云え、一女優の記念館を建てるとなると(それも市の財源で……)、一部の市民からは強い反発が起こるのでは、と思いましたが、夢を語る皆さんの会話に水を差す様なことも言えず、私と設計士は帰途につきました。
下見だけのはずが、小林正樹監督は地元新聞やテレビの取材まで受けて戻ってきました。地元紙に記念館構想が発表されて程なく、建設の白紙撤回が決まった、と伝えられました。
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