17 落葉 





街路樹(プラタナス)の落ち葉でしよう。どこからともなく舞ってきて、店の前の植え込みに留まっていました。そこへ上手い具合(?)に侘助の花が落ちたようです。これは私が意図的に置いたものではありません。拾ったそのまま、包まれるようにある侘助の落花、美しいものですね。今回の花器は枯葉です。


八朗さんのこと その3


私が請け負ったポスターや中吊りのデザインには、10代の頃に培った「貼り付けアート」の素地が役立った様です。しかし多くのデザインは、出張から帰った八朗さんの手によってアレンジされ、時には形を残さぬほどに変更されて世に出ました。依頼は、私が東急エージェンシーに勤めるようになってからもしばらくは続きました。

夕方、仕事を終えると、銀座電通の八朗さんの机に向かい、そこに置かれてある材料(写真や写植)と指示書きをもとに、デザイン(版下)をコツコツと仕上げて帰ります(広告素材は世に出るまでは企業秘密ですので、社外への持ち出しができません)。終電が過ぎた時は、八朗さんから預かっていたタクシーチケット(魔法の絨毯)を使っての帰宅です。東急エージェンシーのデザイナーが電通でアルバイトをし、電通のタクシーチケットを使って帰ると云う……何とも大らかな時代でした。八朗さんの机で仕事をするうちに、近くの席のコピーライター(CD)とも親しくなり、東急エージェンシーを独立した後は、彼らからも仕事の依頼を受けると云う恩恵までありました。

私が東急エージェンシーを辞めて独立した折、八朗さんから電卓をお祝いにもらっています。「高木君はお金の計算が苦手なままじゃダメだよ」と言って渡してくれました。また、「栗八は僕が独立したらつけようと思っていた名前だったのに」と悔しがっていました。確かに八朗さんの方が似合う名前と云えますね。

私が独立してしばらく後、八朗さんも独立し、栗八の近く(六本木)に小さな事務所(8ro art & ad)を構えました。時々は栗八にも顔を出して茶飲み話をし、猫たちと戯れ、食事時間と重なれば「ごちそうするよ」と誘われるのですが、行く先はいつも決まって六本木駅近くの立ち食いそば屋か、いなり寿司屋なのです。「ここは、ごちそうのレベルじゃないでしょう」と反論するのですが、「え〜、美味しいのに」とまったく意に介していませんでした。八朗さんは2005年12月の暮れ、くも膜下出血で急逝しています。68歳でした。

7:30p.mには、その後、カメラマンの横木安良夫、ライトパブリシティのデザイナー(AD)栗林孝之が参加してくれたのですが、私が冊子の編集当番となった時にサボって何もやらず、そのまま自然消滅してしまいました。

斎藤誠は独立後、サイトウマコトと名前を変えて大いに活躍し、日本を代表するデザイナーとなりましたが、今はそのデザインを捨ててアーティストとなっています。

酔っ払ってばかりいた駒形克己は、日本デザインセンターを辞め、何の伝手もないまま渡米し、帰国した後は世界に評価される造本(絵本)作家になっています。

修田潤悟は自作の段ボール写真機での写真展を度々開催し、博報堂退社後はデザイン学校で教鞭もとっているときいています。

柳沢光二は電通を定年退社後、葉山に籠り、何もしていないでしよう。少し古くなった眺めの良い家でのんびりと暮らしていると思います。

土屋直久は、K2独立後にデザイン事務所を立ち上げ、それは今も続けていると思います。彼だけは今も年賀状をくれます。

カメラマンの杉山守は2015年に、長く患っていたパーキンソン病が進み亡くなっています。64歳でした。

私は骨董屋となった今も、八朗さんに贈られた電卓を使っています。



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