16 えふご 江戸−明治時代
器は鷹匠が使う餌入れで、「えふご」と名付けられています。日本民藝館の柳宗悦蒐集品にも「えふご」があり、竹の特性を活かした造形の美しさ(機能美)を、柳自身が高く評価しています。「えふご」は古くより、茶人にも花器として取り上げられています。
「えふご」の個性的でモダンな姿形は、花がなくとも十分に際立ちますが、いざ花を活けてみるとなかなかの曲者でした。私の小手先の花などまったく寄せつけてくれません。これは苦肉の策の紅葉ひと枝です。紅葉は屋上のプランターで育ち過ぎたため、裏の路地(地面)に移し替えたのですが、それから10年が経ち、幹も太くなり、今年はようやく少し紅葉してくれました。
八朗さんのこと その2
7:30p.mは、いつもデザインセンターに場所を借りて7時半に集まり、展開会議でした。「冊子を作ろう」「展覧会をやろう」と、やりたいことは出てくるのですが、いったい何時、何処で、誰が、何を、どうやるかと云う点になると、誠と私は互いに美意識や方法論の違いを指摘し、ののしり合うだけで話が前に進みません。今で云うマウントの取り合いです。集まった皆は、いつも呆れながら私たちのやり取りを聞いていたことでしょう。
やがてしびれを切らした土屋、修田の二人が、「俺がやろうか」と冊子や展覧会の準備を請け負ってくれました。そうと決まれば出来たも同然と、若者(バカ者)たちは夜の街(ディスコ)へと繰り出します。皆、金も無いのによく呑み、よく踊り、時々は騒動に巻き込まれながら一夜を過ごしていました。やがてメンバーはひとりふたりと帰って行き、最後まで残るのは、いつも私と駒ちゃん(駒形克己)でした。
そんな中でも、タブロイド版の安っぽい冊子が出来上がり、銀座での展覧会も開催されました。多くのデザイン関係者が来場してくれ、デザイン誌にもそれなりに取り上げられたのでしょうが、評判や批判については何も覚えていません。展覧会中も毎晩の様にディスコへ出かける日々でしたので、私の頭の中はいつもミラーボールがキラキラと回っていました。
展覧会が済んでしばらく経った頃、「鈴木八朗です」と電話がありました。鈴木八朗は、展覧会の会場で栁沢さんから紹介されました。ブラックイズビューティフルと謳った富士ゼロックスの広告や、JRのディスカバージャパンのポスターで一躍有名となっていた電通のアートディレクターです。「会いましょう」と電話で誘われ、銀座電通前のWESTで待ち合わせました。これから夜のお店で働くお姉さんたちで混雑する、夕方の喫茶店での対面でした。日本文化や骨董の話など、打てば響く八朗さんに、私はデザイン業界で初めて同好の士に出会った様な気持ちになり、熱く語っていました。
WESTの晩からしばらく経つと、また「会いましょう」と電話がありました。ちょうど東急エージェンシーに転職が決まり、採用前の準備期間でゆとりのあった時です。「私の出張中にポスターを仕上げておいて欲しい」との依頼でした。後で知ったことですが、八朗さんは自身の仕事(デザイン)を決して人に任せません。電通でディレクターとなってからも、デザインから版下まで、すべて自分の手作業で作っていました。写植(文字そのもの)を大胆自在に切って詰め、画面に鋭利で斬新な効果を生み出していました。これをカッターナイフ1本で手際よくやるのですが、失敗すれば文字のバランスは大きく崩れます。八朗さんの手にかかると絶妙な間と緊張感を残して写植文字は切られ、組まれていきました。これは誰にでも真似のできる作業ではありません。そんな八朗流のデザインを、留守の間に代わりにやっておいてくれと云うのです。
八朗さんの目にかなう自信はまったくなかったのですが、「バイト代はあげるよ」のひと言で、「はい」と引き受けることになりました。
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