34 江戸ガラス徳利





深い紫色の江戸ガラス徳利です。吹きガラスで、見た目の重厚さと違い、手取りは軽いものです。江戸ガラスでは、他にも皿や鉢等の器や装飾品等、様々な品が作られていますが、市場に出回る数も種類も豊富なのが、酒器(徳利盃類)と思います。江戸後期になると、各地の焼きものでも1、2合入りの徳利や小さな盃が盛んに焼かれる様になってきますので、この頃に日本酒(清酒)の普及と需要が急速に高まってきたことが、残された骨董からもわかります。今に続く庶民の飲酒習慣は、江戸後期に始まったのかも知れません。そんな時代に登場したガラスの徳利や盃ですので、新奇を好む先人たちに好まれ、もの珍しさからも、大いに酒席を賑わしたことでしょう。この徳利にもそんな華やいだ時があったのかも知れませんが、今はもう何事もなかったかの様に静かに佇んでいます。

花(葉)は虫喰いと雨風ですっかり荒れた菖蒲です。葉先はまだ青々と生命力をとどめ、逞しいものです。




今井正監督のこと


日本映画学校主催で新宿(テアトル新宿)で行なわれた「日本映画の発見」は、初回(小林正樹)の好評を得て、翌年からも定期的に行なわれる様になりました。第2回は新藤兼人、3回は今井正でした。以降、吉村公三郎、市川崑、岡本喜八、黒澤明、今村昌平と続き、黒澤明以外は、全ての監督にお会いしました。どの監督も皆さん個性的で、思い出はあるのですが、一度お会いしただけで、その人柄の虜になってしまったのは今井正監督です。

日本映画学校のスタッフに案内されて、一度だけ住まいを訪ねました。うろ覚えなのですが、東京郊外にお住まいだったと思います。昭和(戦後)の映画に出てきそうな古い木戸に、寺院名の書かれた小さな木の表札が掛かっており、訝しく思いながら訪ねた住まいも、また昭和の映画に出てきそうな侘びた一軒家でした。

奥様に案内されて、二間続きの居間に通されて驚きました。何もないのです。広縁の窓には古いカーテンがかかっていましたが、茶簞笥や花瓶、床の間の掛け軸や置物など、まったくありません。シンプルなテーブルと腰掛け椅子が数脚置かれてあるのみで、引越しの片付けを済ませたあとの様子です。

しばらくすると今井正監督が笑顔で入ってこられました。小林正樹監督も大柄ですが、今井正監督も大柄です。奥様がお茶を運んでこられ、ひと通りの挨拶が済み、ポスターの案を監督の前に広げました。いつもと同じ「これ一案」です。稲をイメージとし、タイトルは「日本映画の暖流」としました。今井正監督作品は根底にいつも暖かなヒューマニズムが流れていると思ったからです。

ところが、同伴していた日本映画学校のスタッフから異論が出ました。「暖流と云えば、吉村(公三郎)監督の有名な作品があります」と……。迂闊でしたが、私はその事実(『暖流』と云う映画のあること)を知りませんでした。「これ一本」で提出する企画(デザイン)は、この様な展開ではまったく無力です。私は何の言い訳も対案も思いつかず、黙ってしまいました。

  「暖流、良いですね」。ポスターをじっと眺めていた今井正監督がポツリと言い、「私は好きです」と笑顔を向けてくれました。これで場の緊張(こちらが勝手に緊張していただけですが……)は、一気にほぐれました。あとはよもやま話となり、小林正樹監督の意気盛んなご様子を伝えると目を細められ、「私はもう、映画(しゃしん)は撮りたくないのですが、どうしてもあと1本、義理で撮らなければなりません」と言いました。あとで知ったことですが、それは遺作となった『戦争と青春』のことでした。

  「門にお寺の表札が……」と尋ねると、「家はお寺なんですよ」とはにかんだ様に笑い、片付いた部屋のことを無遠慮に尋ねると、「この歳になると、もう何も要らないですから……」と応えてくれます。今回のパンフレットに載せる様な、映画の製作資料や受賞のトロフィーや賞状も一切残っていないとのことです。「トロフィーは子供が小さな頃、遊んで壊したので捨てました」と言い、両切りのショートピースを美味そうに燻らせ、「もう、好きな映画(しゃしん)を観ながら、映画館の椅子で死ねたら本望です」と穏やかに言います。

お会いして1時間足らずで、監督の人柄にすっかり魅了されてしまいました。今井正監督とお会いした翌日から、私はそれまで吸っていたタバコをショートピースに変えています。今平(今村昌平)さんや正樹(小林正樹)さんもショートピースでしたから、タバコを変えたきっかけ(理由)を説明するのは難しいのですが、強いてあげれば「憧れの人に一歩でも近づきたい……」と云ったファン心理でしょう。

後日、「今井正さんにすっかり惚れてしまった」と、小林正樹さんのマネージャーに話しました。すると、「あー、当然ですよ」と言われ、ある大女優とのエピソードを教えてくれました。当時、皆の憧れだった大スターは、今井正監督に惚れ込んだあまりに……と云うお話で、それを聞いた私に驚きはありませんでした。

一期一会でしたが、今井正監督に会えて幸運でした。男も女も惚れる今井正作品の中で、私のベストは、『真昼の暗黒』と『キクとイサム』です。まったく視点の違う2作品ですが、根底には力強いヒューマニズム(人間愛)が流れています。1本には絞れませんでした。日本人必見です。





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