51 時代蒔絵箱
モダンな格子文の蒔絵箱です。文箱にしては小さく、香道具等が収めてあったのかも知れません。仕入れた折には、中に何も入っていませんでした。私もそうですが、数寄者の方も多くが箱好きです。何に使うと云った明確な動機がなくとも、好みの箱が目の前に出てくると自制が効かなくなります。私もこの箱に出会った途端にブレーキが外れました。「親の仇」(例えが古!)って勢いで買ってきました。
花はプランターに芽吹き始めた萩の若葉です。通常の萩の様に背高く大きくは育ちません。小さな葉のまま、地を埋める様に成長し、栗八の屋上で保護猫たちの寝床になっています。それでも秋には小さな白い花をいっぱい咲かせます。その様子は、まさに蒔絵に描かれた萩そのものです。
光さんのこと その9
骨董業者の市場を仕切りながら盛り上げてくれる、市場には欠かせぬ存在であった光さんですが、自制の効かぬことがひとつだけありました。酒です。
今はあまり行なわれなくなりましたが、かつて市場(交換会)のいくつかは、年に一度、温泉旅行を兼ねた泊まりがけの交換会を行なっていました。昼は会を開き、夜は宴会と云うコースです。私は酒が飲めませんし、大人数での宴会の場が苦手でしたので、交換会に出席し、終われば宴会には参加せず、そのまま帰ってくるのが常でしたので、光さんの酒席での騒動に遭遇したことはないのですが、会から戻った幾人からは「また永楽堂が……」と酒席での騒動を耳にしていました。
絡みクセと云うのでしょうか。宴席で酔い、身近な相手に執拗に絡み、挙句は暴力沙汰になってしまうと云う展開です。度々聞いた出来事でしたから、光さんは、酒に飲まれてしまうことが分かっていながら、痛飲が止められぬ弱さがあったのかも知れません。
私たちの会(集芳会)でも年に一度、温泉旅行を兼ねた交換会を開催しており、光さんも毎年参加していました。私は主催者の一員として、宴会が苦手だからと自分だけ帰ることもできませんので、泊まるのですが、宴会が始まるとすぐに抜け出し、部屋に戻っているのが常でした。
光さんの酒癖については多くの業者が知っていましたので、「飲ませて大丈夫か……」と私の部屋まで尋ねにくる人もありましたが、酔っ払いのあしらい方を知らぬ私では応え様もありません。「何かあれば……」と伝えてそのままにしていたのですが、光さんは酒を飲んだら寝てしまい、集芳会の宴席で誰かに絡んだり、騒動を起こしたことは一度もありませんでした。
光さんも会主であった会が解散し、新たな会として再編成されたことがありました。新しい会主の中に永楽堂(光さん)の名前はありませんでした。光さんが会主から外されたのか、自ら降りたのか、事情は分かりませんが、他の会主との酒席のトラブルも一因であったのかも知れません。
再編成された会の初回の出来事です。いつもどおり振り手として競り台に着いた光さんに、会の代表が「あっ、もう良いよ」と席を立たせ、他の会主へと振り手を交代させました。光さんは今までどおり会を進行させようと競り台に座ったのでしょうが、代表からは「もう(会主じゃないのでやってくれなくとも)良いよ」と云った扱いでした。その様子を近くで見ていた私には、競り台を立つ際の光さんの屈辱感がハッキリと読みとれました。走る様にその場を去り、そのまま市場からも帰ってしまい、以降その会に参加することはなくなりました。
しばらく経った頃、市場で光さんの姿を見かけなくなり、集芳会も欠席するようになりました。「容態が思わしくなくて入院している」と、光さんと親しく、共に谷保天会の会主でもある桜木さんが教えてくれました。膵臓癌がすでに転移しており、回復は期待できないかも知れないとのことでした。それを聞いて間もなく、「光さんが亡くなった」と桜木さんから伝えられました。私と同じ歳で、まだ60代前半でした。
市場では、扱う品も好みも違う光さんと私が仲良く話しているのを不思議に思う業者は多く、度々「何で……」と二人の関係を尋ねられることがありました。光さんはいつも、「店を始めた時に、業者以外で最初に来てくれたのがコイツで、買ってくれたのは良いけど月賦でさあ」と、誰に訊かれても笑顔でそう応えていました。
光さんの店(永楽堂)の最初の客となり、弥生の壺を(月賦で)頒けてもらえたことは、私にとっても懐かしい思い出です。