36 李朝魚文竹筒





太い竹筒に拙い魚が釘彫りされています。李朝民画の世界観をそのまま写し取った様で、素朴さが好ましいものです。火を使う台所で、物入れとして使われてきたものと思います。この魚文と、ほど良く枯れた竹の味わいを見れば、骨董好きには花はもう余計なのですが、花器にも、と欲をだしてみました。花は屋上のエノコログサ(猫じゃらし)と女郎花です。




吉村公三郎監督のこと その2


前代未聞、と云うと大袈裟なのですが、吉村公三郎監督(以下、監督)とお会いする約束の日までに、広告案の「これ一本」は結局生まれてはくれませんでした。これはデザイナーとして失格で、苦肉の策でも何でも作って持って行くのが常識ですし、他の仕事ではそうしてきました。監督はきっと、以前の映画祭ポスター(小林正樹監督、新藤兼人監督、今井正監督)をご覧になっているでしょうから、的外れの惹句(キャッチコピー)や表現は、却って監督に失礼と思いました。また、秀作を作り続けてきた監督ですから、小手先の思いつきでまとめた表現では、こちらの底の浅さを見透かされてしまうのがオチでしょう。そうなれば、私の恥だけではなく、私を信頼し、この企画の広告一切を無条件で任せてくれている、今村昌平監督や日本映画学校のスタッフにまで恥をかかせることになります。それだけは避けたい、との思いで、私はポスター案を持たずに監督とお会いすることになりました。

監督は都内の、陽当たりの良い落ち着いたマンションにお住まいでした。すでに80歳になろうと云うお歳でしたが、血色は良くお元気で、訪ねた私たちを笑顔で迎えてくれました。ひと通りの紹介と挨拶が済み、「実は……」と広告案ができていないお詫びを伝えると、まったく意に返さぬ風で、「それは、それは」と笑っています。私の映画(しゃしん)はひと言で言い切ることは難しいでしょうと、ご自身が分かっていての「それは、それは」と応えたやさしさ(寛容)と、私には感じられました。

恥じる私に「私の映画(しやしん)は、ほとんどがつまらないものです。私は撮るより、観る方が上手いんです」と笑って言いますので、「いえいえ」と否定しながらも、つい私は苦笑してしまいます。お会いした時から、監督が何か(誰か)に似ている……と思ってはいたのですが、極度の緊張もあり、その何かが分からずにいましたが、監督のひと言でひらめきました。噺家です。羽織姿で寄席に座らせたならピッタリきそうな風貌、雰囲気です。そう思いついたら、何だか緊張がとけました。

その後の話題は、様々な日本映画の細部にちりばめられている秘密を解くと云った、初耳噺が監督から次々と語られました。聞いているだけで、その映画を観たくなります。私たちは「へー」「ほー」と驚きながら相づちを打つだけで良いのです。編集や画面から観る映画の楽しみ方を、この時に初めて知ることができました。名作と呼ばれる映画の中にちりばめられている、撮影の斬新なアイデアや編集技法の秘密を監督から教えて貰っているうちに、陽はもうすっかり傾いてしまいましたが、私はこの特等席を離れがたい思いでそれを聞いていました。「へー」「ほー」と応えながら、私の中では吉村公三郎監督の「これ一本」が生まれていました。



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