31 時代香筒
細い筒花器は「香筒」で、全体に透かし彫りの入る、繊細で優美なものです。香筒は一輪挿しの掛け花入として重宝しますが、問題は中に仕込む落としです。有り合わせの落としではまず使えません。特注で作ってもらう必要がありますが、私はお願いする際に、ついでに掛け金具も付けてもらっています。この香筒には透明アクリルの細筒を仕込んであります。掛け金具は付けず、テグスで間に合わせています。
花は屋上のよく伸びた猫じゃらしです。撮影用に折ったのではなく、摘みに行ったら折れていました。栗八の保護猫たちにとって、屋上のプランター群は絶好の遊び場ですので、青草にじゃれたり、食べたり、寝そべったり、眠ったり、追いかけっこをしたりと気ままなものです。折ったのも猫の仕業でしょうが、花材としては絶妙でした。
小林正樹監督のこと その7
下関市による田中絹代記念館構想の白紙撤廃。それを聞いた私に驚きはなく、設計士も同様でした。小林正樹監督(以下監督)はと云うと、残念がっていたのでしょうが、「記念館」と云うカタチで田中絹代さんの遺品を後世に残す、と云う意義にすっかり心奪われている様子でした。下関での出来事を経て、「田中絹代記念館」設立を実現する覚悟みたいなものが生まれていたのかも知れません。
監督が言います。「田中絹代の遺品を記念館と云うカタチで遺すためには、収蔵品のリスト作り(所蔵品一覧)が必要だそうです。それを栗さんにお願いしたい」と……。名称、分類、形状、寸法、状態、写真。田中絹代邸に遺されていた遺品全ての写真を撮り、それを項目ごとにリストにまとめ上げると云う、単純ですが、時間と根気を要する作業を頼まれました。アルバイトでも頼んで手伝わせれば手早くはできるでしょうが、監督は嫌がるでしょう。あの家に見知らぬ人を入れたくないでしょうし、遺された品に無闇に触れてほしくもないでしょう。「はい」と私は応えていました。監督の夢に付き合います、と心で思いながら……。
昭和最後の年、1988年、日本はバブルと呼ばれた異常な好景気がピークに差し掛かっていました。私は、東急エージェンシーから独立後に借りた青山のデザイン事務所を、2年を待たずに地上げのために立ち退きとなっています。六本木に新たに借りた一軒家でようやく体制を立て直し、山積みの仕事に取り掛かったばかりでした。
事務所設立直後は、経済的な不安から、仕事依頼がくればどれも皆引き受けていました。結果として、こなし切れぬほどの仕事が舞い込み、数名のスタッフが毎日数時間の睡眠でようやく仕事を回す状態が続いていました。税金に関してはまったく無知でしたので、申告時に税理士から告げられた納税額の高さには、恐怖すら感じたほどです。睡眠時間を削るほどに仕事を増やしても納税額か増えるだけだと、痛感しました。
それからは、新たな仕事依頼を極力辞退し、私個人の念願であった写真集作りに着手していました。平成元年の12月に有楽町マリオンで開催した、浮浪者の写真展「阿羅漢」です。企画は私ですが、写真は大阪から上京してきたばかりのカメラマン山中学君にお願いしていました。
田中絹代記念館用の遺品リスト作りを引き受けたのは、ちょうど山中君が都内各所で浮浪者を探し、ひたすら写真に収めていた時期と重なります。デザイン業界ではカメラマン山中学はまだ無名でしたので、彼の東京での生活を支える仕事はほとんどありませんでした。「山中、やってもらいたい仕事がある」と言えば「ハイ、やります」と、内容を伝える前にいつもうれしい返事が返ってきました。
この時もそうでした。絹代さんの遺品を一覧として整理する。その手始めの撮影を山中君に頼みました。こうして、私と彼の田中絹代邸での二人三脚が始まりました。監督は、大きな手術後、脚の具合がことのほか悪く、この頃は現場に立ち合うこともなくなっていましたので、全てが私に託された状態でした。
暑い夏だったと記憶しています。私たちはブローニー(6×6判カメラ)で、朝から日暮れまで撮影を続けていました。田中邸の売却も進められていた様子で、遺品の他所への移動(保管)も急務でした。撮影する前に凡そのメモを取り、番号を振り、撮影が済んだら段ボールに詰める。それが私の役目でした。一覧表にまとめる作業は事務所へ戻ってからやりました。まだパソコンなど普及していない時代です。リスト作りは手書きでやっていました。
遺品全ての撮影を終えるのに3日ほどかかったのでしょうが、今ではその間の記憶が曖昧です。すべての撮影を終えて、日の暮れかかった田中邸から帰る時、「此処へは、もう来ることはないだろう……」と、山中君の運転する車の助手席から、ひっそりとした佇まいを見返したことだけを覚えています。
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