52 時代竹籠ふたつ
5月の節句を過ぎて、暖かな日が続くと、屋上の草花はいっせいに伸びて葉を茂らせ、あちこちで花も咲き始めます。紫陽花ももう花ひらく様子です。まだ風が肌寒い春先から、屋上の多くのプランターでは、余分な根のはる土を取り除き、ふるいにかけ、新しい土と混ぜて入れ替え、草木(苗)を移し替える作業を毎年こつこつとやっています。この作業を終えた屋上は、引越しの荷造りが済んだ部屋の様子で、スッキリと整った景色なのですが、端午の節句を過ぎる頃には、若葉青葉のやわらかく瑞々しい茂りに溢れます。繊細な山野草も、もう栗八の保護猫たちに踏まれても、押しつぶされても、翌日にはたくましく蘇っています。暖かな日差しの中を、プランターのどこかで生まれたアゲハ蝶が飛び交い、猫たちも気ままに寝そべっています。初夏の屋上の平和な景色です。
屋上に咲いた花をランダムに切りとって竹籠に生けてみました。上の籠は古い箱に収まる唐物時代籠で、花器として編まれたものです。下は、台所等で使われてきた民具(実用の籠)でしょう。
コマちゃんのこと その1
東京も春の寒さが緩み、例年より少し遅れて桜が咲き始めた頃、朝刊を読んでいて死亡欄の小さな記事に目が止まりまし。「駒形克己 3月29日 誤嚥性肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去 70歳」とあり、主だった活動が載っていました。
コマちゃんが死にました。ネット(ウィキペデア)に載るコマちゃんの略歴から一部を紹介します。
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駒形克己 静岡生まれ。(株)日本デザインセンターを経て、1977年渡米。ニューヨークCBS本社などでグラフィックデザイナーとして活躍後、1983年帰国。1986年に自身の事務所ONE STROKEを設立し、以降「LITTLE EYES」「紙の絵本」シリーズなど多数の絵本を同社より出版。
1994年にフランスのリヨンで開かれた展覧会がワークショップとあわせて、日本、フランス、イタリア、スイス、メキシコなど世界各地を巡回する。
2001年、視覚障害者に向けた本、「折ってひらいて」「LEAVES」を日仏で共同出版。
2004年フランス、グルノーブル市が、その年に生まれた子どもに本を贈るプロジェクト「ブックスタート」で絵本を制作。
ニューヨークADC銀賞、2000年・2010年イタリア・ボローニャRAGAZZI賞優秀賞、2002年スイス国際児童図書賞(F.E.E.)特別賞、2006年GOOD DESIGN・ユニバーサルデザイン大賞、2007年GOOD DESIGN賞他、受賞多数。
紙の素材をいかした創作絵本、知育玩具など、独自のモノづくりが世界的に評価を受けている。
2024年3月29日、誤嚥性肺炎ため死去 70歳没。
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新聞を読み終えて、ぬるくなったカフェオレを飲むと、コマちゃんの人懐こい笑顔が蘇りました。コマちゃんと私が出会ってもう50年が経っていました。コマちゃんが21歳、私は22歳でした。
20歳の私は、福井県在住のアンフォルメ画家小野忠弘氏の教え子でもあつた戸田正寿(戸田さん)を頼って、デザイナーを夢見て新潟から上京しました。戸田さんは当時、髙島屋本店のデザイン部に在籍していましたが、数年後にはデザイン界の重鎮、永井一正が率いる日本デザインセンターへとスカウトされていました。私もようやく職を得て、六本木の小さなデザイン事務所(プラスアルファ)で働き始めた頃の事です。
戸田さんから、デザイン事務所に電話がありました。「会わせたい男がいるのでセンター(日本デザインセンター)まで来れるか」とのことです。「行きます」と応え、仕事を終えてから日本デザインセンター(以下、センター)へと向かいました。会わせたい男とは、戸田さんのアシスタントをしていた斉藤誠(サイトウ マコト)でした。「高木君に似てる」と戸田さんに紹介されたのですか、マコトは今にも胸ぐらを摑んで、ケンカを売ってきそうな挑戦的な態度と物言いです。「こんなヤツに似てるとは……」と、内心憮然としていたのですが、それはマコトも同じ思いだったでしょう。
「まぁ、よろしく」とその日は早々に引き上げてきたのですが、それから1週間も経ぬ内に、今度はマコトから電話がありました。「相談したいことがあるので、○日の夜7時半に、センターまで来て欲しい」との話です。「いいよ」と応え、出かけて行きました。センターで指定された部屋へ入ると、すでに3名の見知らぬ男たちがいます。たがいに面識がない様子で、皆無口のままです。まるでアルバイトの面接会場です。相談事は二人でするものではないのか……私は啞然としていました。
しばらくすると、「ヤアヤア、遅くなってすまん」と言いながら、マコトともう一人の男がドアを開けて入ってきました。「これは何の真似だ」と詰め寄る私に、「まあまあ落ち着いて高木クン」とマコトが笑って応えます。ますます気に入りませんが、ここは彼の言うとおり、落ち着いて話をきく展開です。苦笑いで席に着きました。
「私が今日、皆さんを呼んだのは……」と始まったマコトの話は、要約すればこうです。「私たちはまだ名もないかけ出しのクリエイターに過ぎませんが、デザイン界を驚かす様なことがしたいと云う気概と熱意だけは持っていると思います。でも、それをやり遂げるには、やはり何らかの才能が必要でしょう。今日ここに集まってもらった皆さんは、私(マコト)がその才能があると見込んで声をかけた方々です。これから何をやるかは、まだ何も決めていませんが、このメンバーで何かをやってみたいと思うのです。如何でしょうか」との話です。
「面白いことを考えるものだ」と感心し、驚きました。私自身は日々の仕事に忙殺されていて、デザイン界を云々などと考えたこともありません。「そんなヒマがあるか……」と反発したい気持ちもあったのですが、「何か面白そうだ……」の気持ちが勝りました。そこに居た皆も私と同じ思いだったでしょう。「あの〜」と、最後尾の席に居たちょび髭の大柄な男が、マコトに声をかけました。「私、誰も知らないんですが……」と笑っています。「俺から皆さんを紹介します」とマコトが引き取り、私を含めた6人の紹介が始まりました。
日本デザインセンターのデザイナー斉藤誠。一緒に入ってきたのは、センターのカメラマン杉山守。ちょび髭の彼は電通のデザイナー栁澤光二、静かに佇んでいたのはK-2のデザイナー土屋直久。終始ちょっと皮肉そうな笑顔を見せていた旭通のデザイナー修田潤吾。それに私です。
「あと一人、遅れていますが声をかけています」と話している間に、勢いよくドアを開けて入ってきたのがセンターのデザイナー駒形克己です。マコトの呼びかけで集まった7人が揃いました。