61 時代竹籠





萩や吾亦紅など、屋上に残る秋草を少しだけ摘んで投げ入れました。黒々と煤けた籠は農家等で使われてきた民具でしょう。床の軸は仙厓筆「寒山(かんざん)画讃」。寒山が頭を深く下げて巻物を見ている姿ですが、私には子供のお辞儀にしか見えません。箒を持つ拾得(じっとく)が描かれていないのは、この絵が双(対)幅の片割れだからです。なぜそれが判るかと云うと、上に書かれた賛が途中までなのです。仙厓は「寒山拾得図」を比較的多く描いており、様々な賛を配していますが、中に「天台霞色 峨眉月影 添得寒拾 大殺風景」と書かれた幅がいくつか残されていますので、掲出図の賛はその前半部分である事がわかります。私なりに訳してみれば、「天台山は霞に染まり、峨眉山は月影を映す、添え得るは寒山拾得、大いに殺風景なり」。この幅は前段部分ですので、「天台山は霞に染まり、峨眉山は月影を映す、添え得るは……」と、仙厓の意に反してロマンチックな余韻を残す賛になっていると、書いてきたところで気がつきました。「添得」の賛のあとは空白で、仙厓の落款(サイン)が無造作に入っています。あえて後段の「寒拾 大殺風景」を書かず、これで良しと意図的に仕上げた一幅である可能も否定できなくなってきました。

私の思い描く制作場面はこうです。虫の音も止んだ秋の夜、並べた半紙に寒山、拾得を描いた仙厓、今日はここまでと寒山の上部にお決まりの賛を書き始めました。「天台霞色 峨眉月影 添得」とまで書き、筆が止まります。「ああ、ここ(添得)は拾得の方に書く分だ……」。さて、どうする。しばらく(数秒)迷って、墨をつけると途中で止めた賛のあとに「厓菩薩」と書き入れ、「これで良し」と筆を置きました。

もう一点の拾得、反故にする訳にもいきません。さてと考え(数秒)、一気に「天台霞色 峨眉月影 添得寒拾 大殺風景」と書き上げ、その勢いで、箒を持つ拾得の後ろに、巻物に見入る寒山を(無理やり)描き加えました。




サイトウさんのこと その4


癌に罹ったと伝えられたサイトウさんの店へ伺い、二月堂焼経軸を買い戻して帰ったその日の晩に、彼にメールを送りました。出版された『古道具に花』を、栗八のホームページで紹介したいと伝え、病のことには触れず、店は改装中としておくので了解して欲しいと書き添えました。すぐにサイトウさんから返事があり、訪問と買取りのお礼があり、私に話したことで少し立ち直れそうな気力が出ています、と書かれていました。

この日から、私とサイトウさんのメールのやり取りが始まりました。二人に共通の知人についての取り止めのない話や、骨董のこと、ネットでの商いについて等です。「体調が許せば、ネット(HP)を使っての骨董販売なら再開できるだろうし、気も紛れるだろう」と勧めると、しばらく経って「売れました、前より売れるみたいです」とうれしい返信が返ってきました。サイトウさんのホームページを訪ねると、載せる数も次第に増えている様子で、あれ以来彼とは会ってはいないのですが、何だか「気力で骨董売ってますよ」と伝えられている様で、嬉しく、頼もしく感じていました。

数ヶ月後、私たちの主催する骨董の交換会(集芳会)の会場で、サイトウさんを見かけました。親しい知人数名と会場の壁に寄りかかって、何やら楽しそうに話をしています。通りがかりに目があい、「おう、来たんだ」と笑顔を向けると、「モノがなくなって」とサイトウさんも照れ笑いをしています。あれだけあった店の品がそう簡単に売れてしまう訳がないので、彼なりのジョークなのですが、気持ちの中では、売りたいと思える品がもっと欲しくなり、集芳会へ来たのでしょう。商品の写真を撮り、解説を書き、ホームページに載せて売るだけのことですが、売れていく品や、お客さんとのやりとりも、彼に生きる気力を与えていたのかも知れません。「ガンガン買ってけ」と返事をし、あとは売買の応酬の続く会場ですので、ゆっくり話のできる余裕はありませんでした。

サイトウさんからは、骨董屋になった頃に集芳会に入りたいと要望が伝えられ、承諾していたのですが、実のところ私には、彼は会(業者の交換会)には向いていない様に思えました。どこが向いていないか、具体的には言葉にできないのですが、会で仕入れや売り買いをするには独特のコツというか、大勢の前で競り声をかけ続ける神経の太さの様なものが必要です。また、無神経でも、繊細過ぎても会での売買は務まりません。私が危惧したとおり、サイトウさんは集芳会に入会したものの、年1、2回顔を見せるだけで、売買に参加することはほとんどありませんでした。

そんなサイトウさんが、集芳会に続けてきてくれる様になりました。あの夏、店で会った時よりも、身体も気持ちも元気そうです。競りに参加し、狙っていたであろう数点も仕入れて、飄々と帰って行き、ホームページにも定期的に商品を載せており、解説に病身の気弱さは感じられません。奇跡が起きて回復したのかと私には見えました。そう思える数ヶ月でしたが、その日の集芳会にサイトウさんの姿はありませんでした。「入院した」と誰かに言われたのですが、誰であったか覚えていません。しばらくして「亡くなった」と誰かから電話をもらったのですが、誰であったか覚えていません。

葬式は冬の早い日暮の中でした。焼香であったか、献花であったか覚えていないのですが、長い列に並びました。サイトウさんの知人やお客さんが多かったのでしょう。列の長さがちょっとうれしく、辛かったです。知人の誰かと何かを話したのでしょうが、覚えていません。



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*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
https://store.kogei-seika.jp/

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