7 時代華籠 室町時代





法会の際に僧侶が撒く花びら(散蓮華)を入れた籠で「華籠(けこ)」と呼ばれています。美しい名と思います。華籠には竹製と金銅製があり、近世は金銅製が主になります。

この華籠と良く似た品がMIHO MUSEUMに収蔵されており、「伝般若寺伝来」とされています。細竹で編まれ、ホツレもあるのですが、ヤツレ具合が侘びた風情で花を誘います。散蓮華風に南天のひと枝を添えてみました。




小野先生のこと その2


以降、戸田さんは度々、新津を訪れるようになりました。私もすっかり親しくなり、様々な話を伺う中で、出身校の美術教師であった小野先生の話題が頻繁に登場します。どうやら私の知っている教師とはだいぶ様子が違う、と云うことは、話の内容からも知ることができました。高校生だった戸田さんに現代美術の面白さを教えた恩師であり、先生との出会いからアートへの歩みは始まった、と熱く語っていました。先生の名は小野忠弘。あとで知ったことですが、美術教師と云うよりは、アンフォルメル画家として戦後の現代美術界では知られた存在でした。

ある夏の数日、私は家業(牛乳配達)の休みをもらい、福井まで小野先生を訪ねる旅に出かけました。泊まりがけの旅は高校の夏休み以来です。列車を乗り継ぎ、三国駅へ着くと、すでに新津でも会っていた戸田さんの友人が出迎えてくれました。宿泊先は彼の家です。翌日の昼過ぎ、小野先生宅へは彼が案内してくれ、ひと通り紹介が済むと、彼は仕事へと戻って行きました。

先生と二人になり、対座するのですが、何を話して良いのか……。部屋の中は雑多なモノと本でいっぱいです。それらは部屋をはみ出し、玄関の外まで続いていました。屑屋の様ですが、拾いものアートを専門とする私には宝の山にも見えました。物珍しく眺めていると、「高木さん、良いものをあげましょう」と云って先生は座を立ち、しばらくするとブリキ缶を下げて戻ってきました。「これは、私が作り出した魔法のマチエールです。差し上げます」と……。開けてみると、わずかに刺激臭のする無色透明な液体です。差し上げられても、どう使って良いものか……。あまり、ありがたさを感じなかったのも事実です。後年、小野先生の作品で、件の液体(魔法のマチエール)が頻繁に使われていることを知りました。なるほどこう使うのかと感心したのですが、当時の私では使いこなせず、結局すべて捨ててしまいました。先生には申し訳ないことをしました。

その後はまた、二人の手持ち無沙汰が始まります。友人が再び迎えに来てくれるまで、まだたっぷり時間がありますが、二人の間には何の話題も生まれてくれません。「出かけますか」と突然先生が言われ、もう立ち上がって玄関へ向かっています。どんどん先へ行く先生、あとを追う私。のんびりと散歩するのではなく、側から見れば逃げる者とすがる者の様な関係です。

どこへ連れて行かれるのか、と思い始めた頃、ひょいと骨董屋へ入りました。親しい間柄なのでしょう、先生は腰掛け、店主と何やら会話を始めるのですが、私は蚊帳の外です。ついでに出してもらったお茶など所在なく飲んでいました。「では……」と店を後にして、また逃げる者、すがる者の珍道中が始まります。しばらく街なかを歩き、また次の骨董屋へ入りました。同じように腰掛け、親しげに話される先生。しばらく経つと「では……」と挨拶し、外へ出ると、今度は私が近づくのを待って「つまらなかったですね」と笑います。「イヤ、ついて行くだけでヘトヘトでした」とは言えません。「そうですね」と私も笑い、あとは先生の家まで並んで帰ってきました。

友人が迎えに来てくれ、帰りがけ玄関まで見送りに出てこられた先生が、届いたばかりの郵便物の封を破ると1冊の本を取り出し、少しペラペラとめくって、「これ、帰りにでも」と渡してくれました。「イヤ、つまらん本です」と読んでもいないのに、そう言って、また笑いました。

いただいた本は秦秀雄著『骨董入門』(1972年/池田書店)。著者は福井県三国町の出身。本には小野忠弘氏蔵として、鎌倉時代の越前壺が載っていました。帰りの車中で読み始めた私は、そのまま新潟の骨董屋を訪ねました。先生が三国で連れて行ってくれた先は骨董屋ばかりです。『骨董入門』には、骨董は買ってみなければわからないと書いてあります。骨董屋巡りはつまらない時もあれば、面白い時もあるのでしょう。私も先生の真似をして、骨董屋を訪ね、何か面白いモノを買ってみようと思ったのです。

「何かお探しで……」と問われても、何も知りません。『骨董入門』に載っていた山茶碗を示し、こう云うモノが欲しいと伝えました。この日から、私と骨董との、長い付き合いが始まりました。



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