2 銅製釣船 江戸時代
銅製の釣船花器で、時代を経た緑青の侘びた味わいです。細い吊り鎖も付いているのですが、吊り船として扱えるほどの技量を持っていませんので、床に据えてみました。花は露草と猫じゃらし、押さえ(花留め)には陶片を使っています。
祖父母とチョコのこと
幼年期、私の最初の記憶は、目覚めると隣に大きな猫が寝ている光景です。猫の名はチョコ。キジトラの、おとなしくて大きな猫でした。私は食事の世話係で、残ったご飯に、出汁で使った煮干しを割ってのせ、水で薄めた味噌汁をかけた餌を、朝晩あげていました。当時はキャトフードなどなく、たとえあったとしても、我が家の経済力では購入できなかったでしょう。
家は戦前に祖父がこの地(新潟県旧新津市)で始めた牛乳屋でした。新津は阿賀野川の河口に広がった肥沃な平地で、湿度が高く、雨が続けば水の出る土地でした。我が家は小学校が目の前にあり、近所には同じ年頃の友達も多くいて、恵まれた子供時代を過ごせたと思っています。
家には祖父母、母、3人の姉がおり、私は末っ子で長男、祖父母にはことのほか可愛がられ、わがまま放題に育った(育てられた)と姉たちには事あるごとに言われてきました。家業の牛乳屋はもっぱら母が仕切っており、父はほとんど家にいません。時々ふらりと帰っては来るのですが、家業(牛乳配達)をする父を見たことはありません。
家の前に小さな庭があり、水甕に金魚が数匹、庭木は梅やナツメ、無花果、ザクロ、柿と、実のなる(食べられる)木がほとんどで、他に記憶にあるのはシダと秋海棠、ドクダミ、南天くらいです。
家族総出で早朝から働く牛乳屋ですので、庭はあっても花を手折って飾る習慣はなく、部屋の花と云えば、仏壇の菊と神棚の榊くらいです。これらの挿し替えは祖母の担当で、10日に1度ほどやってくる行商から買っていたと記憶しています。祖母は毎朝、仏壇の水を取り替え、小さな仏飯器に盛ったご飯を供え、蠟燭を灯し、線香を二つに折って焚き、仏壇の前に座り、「ナマンダブナマンダブナマンダブ」と繰り返し唱えるのを日課としていました。新潟は浄土真宗の多い土地柄で、念仏の南無阿弥陀仏をナマンダブと唱えます。これは祖母に限らずお寺の住職も同じですので、越後浄土真宗では真っ当な念仏と云えます。
祖父は中気(今で云うパーキンソン病でしょうか)で、手が始終震えているのですが、物を摑んだりするとき以外、立ち居振る舞いに不自由はなく、床の間を背にした座敷の正面が定位置で、忙しく働く母に代わり、私の面倒を見てくれていました。「人は8時間働き、8時間遊び、8時間寝る」。私が小学生の頃でしょう、雪の積もる小庭をガラス戸越しに眺めながら、そう言われたことを覚えています。幼い頃いちばん多くの時間を共に過ごした祖父ですが、他にどのような話をしたかはもう覚えていません。
チョコの餌場は、商売の牛乳を置く大きな冷蔵庫のある離れ(仕事場)と家を繋ぐ通路にありました。その日は、晩に置いた餌が手付かずに翌朝まで残っていました。そういえばここ数日、チョコの姿を見ていません。前にも数日帰ってこない時はありましたので、もうそろそろ帰ってくる頃と、毎日の様に餌を取り替えておくのですが、戻ってきた様子がありません。老猫は死ぬ時が近づくと姿を隠す、と家の誰かが言っていました。餌を替えつつもあきらめを感じていた頃、「チョコがきた」と姉が私を呼びにきました。大急ぎで餌場に行くと、チョコが静かに餌を食べています。私は痩せて艶をなくしたチョコの背を撫でていました。「もうどこへも行くな」と思ったのですが、その日がチョコを見た最後になりました。「タカボウに会いに来たんろか……」、誰かが呟いたのを覚えています。
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