この4月、福岡県吉井町の杉工場をたずねると、「たけのこ村」展がひらかれていました[上・下]。土器、土師器、須恵器、施釉陶、そして陶彫のようなものまで、おびただしい数の近作展。いずれもその附近、「たけのこ村」の地元の土と薪によるものらしく、なにものだろう、とおどろいたのですが、正体はわからずじまいでした。しかし縁あって、青花でも展示することになりました。会期中、やはり吉井町出身の杉謙太郎さんが「たけのこ村」の器に花をいけてくれます(随時)。同郷のよしみ、そして青花の骨董祭(6月。杉さんの花会も開催)でちょうど上京していたからです。
会期|2021年6月10日(木)-14日(月)
時間|13-20時
会場|工芸青花
東京都新宿区横寺町31-13 一水寮101(神楽坂)
出品|たけのこ村
声明文 たけのこ村
我々九州の人間からすると「東京は田舎である」。これは、北部九州を支配していた豪族磐井氏に言わせればそうである。しかし、それ以前の古代、吉野ヶ里や女王卑弥呼や邪馬台国の存在も忘れてはならない。弥生時代や古墳時代の頃から常に先端を走っていたのは中国や朝鮮に近い九州である。今回は、その九州の地において山土原土を掘り探り、災害などで出た風倒木を燃料に焼いた「焼き物」を持って襲撃する。当時の最先端技術は、「電気」ではなく「火」であり、さらに強還元や炭化というのは、想像もつかない全く新しい発想、脅威に近いものだった。九州から土をたずさえて、コロナや何やかんやで弱りきった人間たちに活力を与えたい。
うぶなうつわ、産土の土産 高木崇雄(工藝風向)
土器というのはむつかしい。むつかしいというか、うさんくさい。発掘されたものと聞けばつい割れあとを目で追っては継いだ人の作為を感じ、完品と聞けばその言葉をまず疑い、次いでは来歴を怪しむ。とはいえ今出来と言われると、何を好んで釉薬があり燃料を選べる時代にそんなものを作ってしまうのか、と思ってしまう。
とはいえ先日知人から、「たけのこ村から」という不思議な会をやってるよ、と聞いていたのを思い出し、日田市に所用のかえりみち、筑後川沿いを下り、小さな街道町・吉井を訪ねてみて驚いた。古い工場の広い空間に数え切れないほどの土器、果実のような施釉の器が立ち並んでいる、転がっている。しかも、これらの器に、疫病のためたまさか故郷・吉井に戻っている花の人、杉謙太郎さんが花を入れていた。
会場の方に聞くと、「たけのこ村」というグループが土器作りを行っているのだという。なにそれ、レヴィ=ストロースか。曰く、制作当初は一箇所の土だけでは形にならなかったものが、筑後から豊前と呼ばれる近隣地域の土を混ぜることにより、焼成温度に耐えられるようになった。それはすなわち、土器が土器として使われていた時代においてすでに地域間の交流が行われていた証ではないか、古代史において九州、しかも筑後地域は朝鮮半島や中国大陸との交流において重要なひとつの拠点であり、その記憶を土は含んでいるのではないか、それゆえにこれらの器は、いずれ皆が帰りゆく産土のしるしとなるだろう……、などなど。なるほど、制作期間を見通す視線の長さゆえに、この土器たちは世間的な価値基準から遠く離れ、ただ鮮やかに、初々しさだけを残しているのかも、などとうすぼんやりと納得し、あるいは狐につままれ、ついつい土器をひとつ持ち帰ってしまった。
ちなみに、会場にはこんな言葉が書かれた張り紙があった。「欲しいのか 欲しくないのか もうわからない それがお土産」と。目の前に置かれた土器が、はたしてどちらだったのか。今も眺めながら呆然としている。