このごろ、前回記した"Maker Faire"をきっかけにキーボード制作の深みにはまりつつあります。暇さえあれば半田ごてを握っては、コンデンサを基盤に取り付ける病に侵されているのです。ちなみにこの原稿は、2台目に作ったキーボードで書いています。腕は一組しかないというのにいったい何をしているのでしょうか。とはいえ、このキーボードは左右が分割しているので肩が開いて凝りが減り、キーの数は少ないけれど配置を自由に変えられるので括弧などもより打ちやすくできる。そのせいか、文章も軽快に書ける気がします。

そういえば、ふだん僕が使っているカメラは1:1のフォーマット、つまり正方形の写真が撮れるのですが、撮影の際、ついカメラを縦位置に構えてしまいます。どちらでも構図は変わらないのに。けれど、縦にすると脇がしまってぶれにくくなり、なんだか良い写真になるような気がする。縦でも持ちやすいような造形的な意匠や、縦にした際でもファインダー内の表記がわかりやすい、といった工夫が、縦位置での使いやすさを自然と体に覚えさせてくれたということなのでしょう。

こんなふうに、使い手が自覚することなく道具がからだの動きを決めていき、道具に身を委ねているときが最も効率よく作業ができるということはままあって、そういう道具を使えることはとてもうれしいものです。ちょっとひと手間かける必要があるのだけれど、そのひと手間が使い手を集中した状態に包み込んでくれる。道具がもつ癖とからだのもつ癖が一体化する、そういう道具は奇妙に見えたりすることもままあるれど、道具本来の用途に即してみると、実に必然的な帰結であって、かえって嫌みがない。ものに教えられるというのはこういうことだなと、感謝したくなります。

ただ同時に、そういうことをいちいち"affordance"などと呼んで持ち上げるのは、ちょっとばかばかしい。「西瓜の縞と蔓は、蔓を掴んで縦に切ることを切り手に誘発するために西瓜が内包するアフォーダンス」なんて、書いてるそばから笑ってしまうのですが、これに類することをマジメに語ってしまうデザイナーは結構いらっしゃる。そんな時に思い起こすのは、老子の「民多利器 國家滋昏 人多智慧 邪事滋起」という言葉です。便利な道具が増えると社会はますます混迷し、こざかしい人が多くなると妙な出来事がますます増える、といった意味でしょうが、どうもこのごろ、"Less is More"やら"Form follows function" 、そして「用の美」といった言葉が「機能美」として受け止められてしまう、「便利」中心の考え方となってしまっていることが、なんだか気持ちが悪いのです。まるで、役に立たないものは要らないもの、と言いたいかのようで。つまり、機能的なものは美しい、を真とするならば、その対偶は、美しくないものは機能的ではない、になってしまう。それは言ってしまえば優生論です。病あるものは生きていてはならない、まであと数歩です。単に美、そして機能を称揚することの危うさはどこにでも潜んでいます。これまで世間的に低く見られたものに潜む美しさを称揚することが、いつしか政治性を帯びて「正義」の顔をし、逆に排除の論理と化す。多様性の担保から始まったはずの運動が、単なる二項対立に陥ってしまう。そんな動きを僕らはこれまで幾度見て来たでしょうか。

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