自分自身がそれを克服できているわけではないので、言いたくないというか、弱みをさらしているとしか言いようが無いのですが、自分も行っているような「ものを選ぶ」仕事における最大の弱みは、「最終的に『見える私』の優越性が残ること」ではないかと思う時があります。
たとえば、坂田さんが古いボロ雑巾に美しさを見出す、というのはわかります。たしかに美しい。ただ、だからといってそれを僕が壁に貼って飾る、というのになんとなく抵抗があるのです。もちろん、飾るのもいい。飾るという行為も暮らしなんだから、花をいけるように、雑巾も飾ればいいと思う。ただ、それがいくら美しくても、あくまで雑巾なのだから、その雑巾でもっと掃除をした方がいいんじゃないかと、ふと自省する。部屋もきれいになるし。使い終わったら洗って、その上でまた壁に貼るなりしたい。そして飾ることも出来ないくらいぼろぼろになったら、飾るよりも、燃したらいいのではないかと思ってしまう。掃除という仕事のなかで酷使された道具に偶々見いだされた美しさが、見いだされたが故に掃除から切り離されるのが、なんとなく腑に落ちない。「飾られるもの」として固着することに納得できないのです。
「工芸」を道具として考えるならば、どんな「工芸品」にもそれぞれ本来持って生まれた固有の役割があります。雑巾が工芸品かはひとまずおくとして、雑巾であれば、掃除のため、という。それが、その役割から「見える」人の目によって、切り離される。そして、切り離されて「美」としての新しい記号をまとわされることになる。つまり、雑巾が壁に貼られた瞬間に、雑巾が掃除という場に戻れなくなってしまう。そのことに不安を抱くのです。「美」が記号化されてしまい、そして、記号としてしか「見えない」人があがめてしまうことで、近代美術が陥った罠である、美の絶対優位性に「工芸がもたらす美」もまた嵌ってしまうことになりはしないか、と。
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