報告後の質疑応答の中で、他の参加者からインドネシアの先行事例として、中国のアート市場について例示があったのですが、個人的には「中国にスタジオを構えるベルギー人アーティスト」の話が象徴的でした。彼が北京郊外にスタジオを構える理由は、大規模な作品の製作にあたって人件費が安いから、だそうです。そういった環境で作られた作品が、世界各地において、無論インドネシアでも、高級ファッション誌である"Harper’s Bazaar"などが主催するアートフェアなどに出品され、高値を付けていく。会場は無論、リッツなどの高級ホテルや、それに準じた場所です。そしてその作品は、インドネシアにおいても顕著となってきた富裕層に売れてゆく。さすがルワンダ人を故意にツチとフツに分け植民地支配を行っただけの事はある、と嫌みの一つも言いたくなるほどの清々しいコロニアリストぶりではないでしょうか。
結局これでは、世界的にカネが余ってしまい、値上がりを求めて買えるものが無くなった状態で選ばれたのがアートであるだけではないかと思わされてしまうのです。ちょうど僕も同じ時期に、香港やアムステルダム、パリ、ロンドンといった街に複数回行く機会がありましたが、どの国、地域でも、やはり骨董屋の息子世代がコンテンポラリーアートを扱うギャラリーに店を変えたり、以前の店の隣にギャラリーを構えていたりと、従来の骨董屋通りの雰囲気が一変していました。そしてこの時期に日本でも数名の作家が各地のオークションにおいて高値をつけていたことを覚えています。ということは、結局「クールジャパン」など何処にも無くて、他の地域のコンテンポラリーアートと同じように売れたというだけだったのでしょう。そして、投資としてアートを扱う「投資家 Investor」、一方でカネの象徴性をアートの象徴性と混同してしまった「愛好家 Art Lover」が増えた、と。けれど、この両者は、他人の欲望を自分の欲望と勘違いしている、という点において、全く同じ根を持っています。
それゆえに、といっていいのでしょうか、例示される作品はどれも似通ってしまう。インドネシアの人が作ったのか中国の人が作ったのか韓国の人が作ったのか区別がつきにくい作品か、そうでなければ、「政治的な正しさ」の記号としてのローカリティを纏う作品ばかり。前者に関しては、2000年代初頭に日本において「セカイ系」と呼ばれたサブカルチャー作品群と同じく、ただひたすら「わたし」と「あなた」の関係性について表出するものであり、後者は、福岡なんかでも駅の近くによくある、おじさんたちが適当に使う居酒屋にあえてチェーン店であることを押し出さず、むしろ「わたしローカルですよ」といった顔をして「博多よかとこ亭」(ほんとにこんな名前の店があったらごめんなさい)みたいな名前をつけ、「新鮮市場直送!」などと手書きっぽい字で書いて刺身をプリント地の器に盛りつけて出す、明らかに「居酒屋コンサルタント」を雇いスタートアップキットでも使って作ったんだろう、と思わせる店と大して違いは無い。
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