「新羅凧」を作る、鈴木召平という人が福岡にいます。
新羅凧とは召平さん独自の呼び名で、一般的には朝鮮凧・韓国凧、韓国では「防牌鳶(Bang-Pae Yeon)」などと呼ばれます。森敦の短編小説『天上の眺め』は、紀州でのダム建設に従事する主人公が、その地に寓居する朝鮮人たちとの交流をきっかけに、幼時の京城(ソウル)での出来事を想起する佳品ですが、その中でも朝鮮凧は重要な役目を担います。森は旧正月に行われていた凧揚げの様子を次のように記しています。
〈みながシンコ餅をつき、旧正月を祝うころ、その京城では、風が街の南西にある南大門のほうから、東大門のある東へと吹き、無数の朝鮮凧が上げられて切りあいをする〉
日本の凧と比べると、朝鮮半島の凧は真ん中に大きな穴が空いているのが特徴で、この穴が空気の流れを整え、切りあいに必要な、上下左右反転といった自由な操舵を可能とします。現在、韓国では韓紙と呼ばれる張りの強い楮漉きの紙を使いますが、召平さんは同じやり方で作られる地元福岡の八女和紙を用い、竹で骨組みを作ります。
天気の良い日に凧をもって福岡城址に出かけ、風に乗せて手から放てば、あっという間に凧は浮かび上がり、中空を泳ぎだす。紡績用の糸枠を改造した道具を用いて、糸を繰り出しては巻き上げ、繰り出しては巻き上げ、と重ねるうちに、凧は目視できないほどの高さに至り、あとは静かに糸の手ごたえを頼りに、その逍遥を楽しむのです。
韓国では凧を作る人は、日本で言うところの「伝統工芸士」に相当する、職人扱いをされると聞きますが、ただ、召平さんが作る新羅凧は、どうも伝統工芸とは言い得ない。それは、技術や材料の問題ではありません。むしろ、召平さんが新羅凧を作るに至った、その歴史のせいではないかと思うのです。
召平さんは昭和3年・1928年、釜山生まれ。鈴木家は黒田藩に仕えた家系で、祖父は明治期の博多において、召平さん曰く「駅弁財閥」を築きあげた「ばけもの」。その財力で玄洋社に小遣いを渡し、頭山満が孫文を匿った際には福岡での滞在先を斡旋したともいいます。父は関西学院大学を出た元牧師・建築技師でもあり、朝鮮半島で学校建築に携わっていました。また叔父は上海・東亜同文書院大学を出て、満州国共和会等で活動を行なっていたとのこと。召平さんは叔父が折々父の元を訪ね来ては、馬占山の処遇について話をしていたのを聞いたそうです。
そのような家に、時代に、釜山に生まれ、母を早くに亡くした召平さんは、幼時、釜山の家近く、牧場で働く朝鮮の青年に凧作りを教わったのです。朝鮮凧で遊ぶ日本人の子どもは周囲にいませんでしたが、あっという間に凧作りも凧揚げも上達し、日々遊んでいたとのこと。
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