当時祖父母はすでに山を降り、町で暮らしていましたが、時折なにか用事があるらしく、親戚や昔なじみの方々を訪ねることがあり、そんなときには僕も物部村に連れて行かれました。神母ノ木(いげのき)から美良布(びらふ)を経て、どんどん山深くに入り、大栃(おおどち)という目的地に着きますが、周囲もまた別役(べっちゃく)、熊押(くもおす、山が雲を押すぐらい高いところだから「くもおす」なんだと言っていましたが本当かどうか)、市宇(いちう)といった独特の地名ばかりで、まるで別世界に来たような心地になりました。そんな折には、小さな棚田がへばりつくように僅かな耕作可能地を覆う、村のあちらこちらを祖父に連れて行かれて、かつての山での仕事や、山にすむ生きものたちのことなど教えてもらったものです。
祖父と歩いていると、紙を切って作られた人形(ひとがた)や御幣が竹に差されて立てられ、塩やお酒など供えて拝んでいる人たちがいるのに出会っては、氏神様でもお祀りしてるのかな、祖母が「何々があるき、太夫(たゆう)さんに頼まないかんちや……」などと話しているのを聞いては、神主さんのことを太夫さんと呼ぶんだなと、ぼんやり思っていました。それがそうではないことを知ったのは、ずいぶん後のことになります。
ある日、書店の店先に『土佐・物部村 神々のかたち』(INAX出版)という本がならんでいるのをたまたま見つけ、物部村って久しく行ってないあの物部村かな、と思い手に取ると、なじみのある風景、見覚えのある人形が紹介されていました。そして物部村で行われている祭祀が、文化人類学者たちに「いざなぎ流」と呼ばれていることをはじめて知ったのです。「いざなぎ流」は平安末期から中世にかけて、神道と仏教、修験道と陰陽道などが入り交じって一つの手法とテキストを作り上げた、この地域独自の民間信仰です。紙を小刀で切り、御幣や人型を作って依代とし、長いまじないのような文を唱え、祭祀を行う。長い間「いざなぎ流」を調査してきた小松和彦、そして梅野光興はその概要と信仰の対象を次のように紹介しています。
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