かつて雑多な品を扱う古道具屋の店先には、使い古された鉄瓶や鍋釜、大八車の車輪、石臼などがうずたかく積まれていたものでした。今、その景色の中からすっかり姿を消してしまった品があります。鉄瓶です。「骨董の価値と価格」後篇は、私自身が経験した、骨董価値は変わらずとも価格の大きく変動した品、について書かせていただきます。
■鉄瓶
2000年代、経済成長著しい中国や台湾等のアジア諸国で古玩愛好者が急増し、古器で茶を愉しむムーブメントが生まれました。湯を沸かす道具として、日本製の「鉄瓶」がにわかに注目を集めだしました。最初は煎茶に用いられた小振りで作の良い鉄瓶や銀瓶が、やがて様々な鉄瓶が業者間の市場で高値で売買されるようになりました。鉄瓶と云うだけで高値に売れ、古道具屋で野ざらしにされていたような鉄瓶も、次々と市場へ持ち込まれました。どこの市場でも、作の良い鉄瓶が出れば競りは過熱し、中には数十万、数百万、千万以上の値のつく鉄瓶までもが登場する事態となりました。それは、それ以上の値で買ってくれるお客様(中国、台湾等の愛好家)があったからなのでしょうが、鉄瓶の高騰は10年と持たずに終わりました。需要と供給のバランスだけでは説明のつかぬ、瞬く間に加熱し、瞬く間に冷え込むと云った、今までの骨董の価値判断では説明のつかぬ、不気味な鉄瓶ブームであったと思います。
■唐三彩
かつて中国の「加彩俑」や「唐三彩」の市場価格は非常に高価でした。博物館や美術館にあるような名品だけではなく、漢や唐と云うだけで、まじめな品(本物)であれば、大疵や直しがあろうと、釉薬がカセていようと、市場価格は現在の数十倍しました。今から4、50年前のことです。唐三彩の小壺ひとつでも、とても一般の蒐集家では手の出せぬ品でした。
今では美しい釉肌の唐三彩小壺が、少し奮発さえすれば、どなたでも購入可能です。なぜ安価になり、誰もが買えるようになったのか……。ニセモノが増えたから、でしょうか。いえ、当時からニセモノは数多くありました。理由は単純です。中国からの出土量が急激に増え、請来される数も急増したからです。「富める者から……」の改革開放政策以降、まだ骨董(古玩)市場の成熟していなかった中国から、バブル期の日本や海外へ、大量のそれら(発掘品)がもたらされたのが主な要因でした。需要以上の量が市場にあり、ボディブローのようにじりじりと価格は下降線をたどって行きました。「安過ぎる……」と多くの業者が感じる価格の低迷でしたが、日本ではバブル崩壊以降、骨董品自体を求める人(需要)が減っており、いつ売れるか判らぬ品を大量に抱え込む余裕は業者間にも残されてはいませんでした。本来の価値と異なる価格の低迷、とも云える奇妙な現象であったと思います。
現在、唐三彩の状態の良いものは再び高値で売買されるようになってきています。流入も落ち着き、ようやく本来の価値(価格的な落ち着き)を取り戻しつつあるように感じています。
■そば猪口
現在も人気の「そば猪口」は、私が骨董に目覚めた50年前は1万円を持って骨董屋に行けば、ほとんどの品が買えました。新潟と云う、伊万里の豊富な地の利もあったのでしょうが、状態の良い5個揃いが欲しければ中期の洒落た文様の中から、1個でよければ初期の珍しい絵柄の猪口が、数も種類も選ぶのに迷うほど、いつも店頭にありました。
その後、そば猪口図録や骨董入門誌が次々と書店に並ぶような庶民派骨董ブームが興り、そば猪口の価格は見る見るうちに上がりはじめ、店頭からも、主だったそば猪口は急激に姿を消していきました。その頃、東京に出てきた私の下宿先に、近所の骨董店主がやって来ました。店主が私の持っていたそば猪口を熱望したのは、当時のブーム(熱狂)を考えれば当然の成り行きだったと思います。私の集めていたそば猪口の多くは、新たな骨董蒐集の資金へと変わっていきました。
私は偶然、そば猪口や古伊万里、くらわんかの多くある地で骨董に目覚め、骨董屋を訪ねる際に、手慰みのようにそれらを買っていただけのことです。憧れの古窯壺や発掘考古、仏教美術を置いていた店は、当時の新潟にはほとんどなかったのです。
■伊万里
骨董価格の乱高下の顕著な例は「伊万里」です。年号が昭和から平成へと変わった1990年代初頭、後にバブルと云われた日本経済は膨張を続け、凡そ全ての骨董も値を上げていたのですが、「24時間戦えますか」と云われたモーレツ社会の一員であった私の収入も、骨董の値上がりに見合うように増えていました。その中でも、急激に値を上げたのが伊万里です。初期伊万里、古九谷から始まり、藍九谷、柿右衛門手、上手伊万里と次々に値が上がり、初期伊万里の中皿や古九谷の端皿が数十万、数百万円と云われても、誰も驚かぬほどの高騰でした。
ちょうどその頃骨董屋になった私は、毎月郷里の新潟へも仕入れに出かけていました。伊万里でも、そば猪口やくらわんかなら、資金力のない私でも少しは仕入れることができましたが、初期伊万里や古九谷などは、あっても高価過ぎてとても手が出せませんでした。ある日、同業の先輩が店に来て、「たこ唐草の大瓶って新潟にない?」と訊きました。「あると思うけど、もう高くて……」と応えると、「高くても良いから、疵のない良いやつ買ってきて」と頼まれました。翌月、新潟へ出かけた折に目ぼしい店を訪ねると、たこ唐草の大瓶がありました。売値は60万円、「これに大金を使う人の気が知れない……」と思いつつも買って帰り、すぐに件の先輩業者に買い取ってもらった次第です。
「柴田コレクション」と呼ばれる、伊万里の優品の寄贈記念図録が九州陶磁文化館より発刊されたのも1990年、以降「伊万里」はより多くの蒐集家を獲得し、その人気は不動のものとなりました。伊万里は蒐集家の熱狂(需要)に応えられるだけの質と量が残されていた、希少な分野でもありました。
それと前後するように、ヤフーオークションの時代が始まります。値上がりの続く伊万里は、ネットオークションと云う、パソコンさえあれば誰でも参加できる気軽な場を得て、さらに多くの支持者(蒐集家)を獲得し始めました。そんなある日、ネットオークションに出品された「1枚の皿」を境に、状況は急変します。
長くなりそうです。続きは次回にしましょう。
塔鈴 室町時代 高21.5cm
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薄く鍍金の残る伝世の「塔鈴(とうれい)」で、密教法具の中でも数は少なく貴重です。掲出の塔鈴は肉厚で重厚、室町時代(15世紀)の作と思われます。が、今回の主題は塔鈴ではなく、その「共直し」についてです。
この塔鈴を仕入れた折りには、塔の先端(相輪部分)は欠損しており、ありませんでした[下]。時代の甲冑や武具等の修理を専門とする鎌倉の金工家を紹介してもらい、図録より選んだ時代塔鈴のコピーと現品を送り、このように作って欲しいとお願いし、出来上がってきたのがこれです[上]。金味(古銅の色味)も本体と上手く合わせてあり、相輪のバランスも絶妙です。言われなければ、欠損のあった塔鈴とは気づかれないかも知れません。
このように、骨董品はあらゆる分野に共直しはあります。もっとも多いのは陶磁器でしょう。器の欠けやホツレ、ニュウを巧みに隠したり(消したり)、壺の口を補ったり、継いだりと、実に様々な古陶磁で共直しは使われています。鑑賞陶器と呼ばれる高価な品にとって、疵は鑑賞を妨げる大きなマイナス要素ともなりますから、それらにとっては共直しは必要不可欠な補修でもあるのですが、業者間の市場等、仕入れの場では、共直しあり(疵あり)と無疵(完品)では、当然に大きな価格の開きがありますので、共直し等の補修を見極める業者の眼は真剣そのものです。容易に判る稚拙な直しもあれば、その手の品を専門とする業者間でも、直しのあるなしで意見の分かれる場合もあります。
私が専ら扱うような発掘考古や民藝等は、疵があって当然と云う暗黙の了解みたいなものがありますので、そう神経質に疵(共直し)を探す習慣が元々なく、仕入れてきた後に共直しが見つかると云う悲劇(うかつな事態)が度々起こります。ちょっと気落ちはするのですが、「やっぱりね」と云う想いがいつも心のどこかにありますので、深い反省にはならず、またやってしまう訳です。発掘の土器や古陶に疵があるのは当然ですので、私の場合は、共直しのある品や、共直しかも知れないと思える品は、とりあえず鍋に入れて煮沸します。長時間煮沸しますと、共直しの塗料(表面の塗装箇所)は剥がれてくれますので、補修を外したり、表れた欠損に再度の金銀補修をお願いしたりしています。
発掘の須恵器や唐津、美濃もの、李朝陶磁も共直しが多いものです。皆さんも気になる所蔵品がありましたら、一度煮てみてください。尚、縄文や弥生土器等は、煮なくとも、水や湯で濡らすだけで、簡単に取れる補修も多いです。
「ブラックライト」と云う、特殊な光を発する小形ライトが市販されています。古陶磁の共直しは肉眼では判り難くとも、ブラックライトの光を当てれば、屈折の違いでハッキリと補修箇所が浮き出る場合が多いです。灯りのある場所ではブラックライトの効果は弱くなりますので、なるべく暗い場所で試してみてください。
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