今まで、多くの古美術骨董誌や骨董入門本が発刊されてきましたが、こと真贋問題に関しては、ごく一部の刊行があるだけで、それも「古陶の真贋、見極めのポイント」と云った、まったくあてにならない(蒐集にほとんど役に立たない)内容が多いものでした。

実際のところ、「ここが判れば(このポイントを押さえれば)ニセモノを摑むことはありません」「ホンモノとニセモノはここが違います」的な解釈(解説)ほど頼りにならないものはありません。言葉や写真で説明できるような、明快な判断基準で判明する程度の贋物であれば、すでに淘汰されており、まともなお店ならそのような品がお客さんの前に出てくることはまずありません。

問題は、その程度の写真や解説ではとうてい解決のつかぬ贋作の場合です。それらは骨董のほとんどの分野で数多存在しています。参考書など何の役にも立たぬ巧妙な贋作が多数横行しているのが古美術骨董の世界です。君子危うきに近寄らず。君子であれば骨董蒐集など止めておかれた方が無難です。でも、ここまで熱心に骨董入門ブログを読んでくださった方は、「それでもなお……」と、すでに虎穴に入る覚悟をお持ちでしょう。つまり骨董の魔力(魅力)を知ってしまった方々と云えます。できれば、そんな熱心な方々に真贋の森へと迷い込んで欲しくはありません。

ここから先は、古美術骨董と半世紀近い付き合いを続けてきた私なりの、真贋の森に迷い込まないためのヒント、とも云える体験談です。

■小懸仏
池袋にあった甍堂さんが鎌倉へ移転してすぐ、骨董誌『小さな蕾』の広告に、移転案内と、春日宮曼荼羅の掛軸を載せていました。電話で問い合わせると、すでに売約済みとの返事でした。その当時でも春日宮曼荼羅はほとんどめぐり会うことのない、貴重希少な仏画でした。甍堂さんは猿投や美濃もの、古窯、民藝等を毎月『小さな蕾』の広告に載せており、気になるお店ではあったのですが、それまで一度も訪ねたことがありませんでした。池袋と云う土地柄が私の足を遠のかせていた一因でもありましたが、京都で親しく訪ねていたお店のご主人に「甍堂の青井さんとあなたは、いつも同じものを手にとるし、同じものの値段を訊く」と笑われていました。「一度、訪ねられたら良い」と勧めてもらってもいました。

宮曼陀羅の電話をかけた時、凡その価格を想定し、手もとの資金で足りない分は蒐集した品を買い取ってもらって……と、勝手に算段して品物も準備していましたので、売れてしまったと聞いた後、用意した品が何だか不要のものに思えてしまい、再び仕舞う気にもなれずにいました。電話から1週間ほどたった頃、再び鎌倉のお店へ電話をしてみました。今度は、私の品を買い取って欲しいとの電話です。幸い「今日はいます」との返事をもらい、鎌倉へ出かけました。

鎌倉には鶴岡八幡宮の参道(若宮大路)両脇や、小町通り、長谷通りに、当時は点々と骨董店があり、個性的なお店も多く、骨董好きには一日中見て回れる楽しい町でもありました。八幡宮へと向かう若宮大路の左手に、いつもカーテンを閉めている(開いていたことはありません)骨董店があり、入り口のガラス戸を引いてみると、鍵はかかっていないのです。電気も点いておらず、カーテン越しの薄暗い店内には古書画がずらりと掛けられており壮観です。それらの多くは、時代の仏画や中世水墨で、幽玄の気配さえ漂っています。観光客がぶらりと入ってくることを嫌う店主が、あえてカーテンを閉めたままにしているとのことで、時には電気を点けて見せてくれ、時にはけんもほろろに追い出されたりもします。仏画の値段を尋ねても、こちらを品定めするように見返されるか、知らぬふりをされるだけで、答えてもらったことはありませんでした。また、小町通りの奥に、雑然と品を積み上げた店がありました。狭くもない店なのですが、品が多過ぎて店の奥まで進めません。奥の一段高い場所に店主は陣取り、品を眺める客の様子を不愛想に眺めています。その店主の背後に、まことに良い具合に枯れた扁額が掛けられています。「〇〇寺」と彫られた三字は蘭渓道隆の書を見るような力強さです。「見せてください」と尋ねると、ここはお寺でもあり、これは寺の看板でもあるから売れないものだ……と何度訊いても同じ返事をされるので、「なるほど」と感心したものでした。

鎌倉での道草が過ぎました。さて、目指す甍堂さんは小町通りを八幡宮に抜ける手前の小路を右手に曲がった奥にありました。入り口には大きな木があり、緑陰の元で麻の暖簾が涼しげに揺れています。板張りの小さな部屋の奥が広い座敷になっており、顔を出されたご主人(青井義夫さん)と初めて挨拶を交わしました。見れば床には古写経の軸、自然釉の残るフラスコ形須恵壺には楚々とした野花、脇には白鳳の古瓦が飾られ、何とも云えぬ心地よい空気が流れています。奈良や京都にさえ、このような気分にさせてくれる店はなかったでしょう。

「では……」と持参の品をひろげ、青井さんの前に差し出しました。ひとつひとつ丁寧に見ては値段を尋ねる青井さんに希望値を伝えていましたが、もう売るのはどうでも良いと私自身は思っていました。この店に辿り着けた(発見した)喜びの方が勝っていました。青井さんからは「これ全部買わせてもらいたいのですが、恥ずかしいことにそこまでお金がありません。支払いはあとで良いですか」と、こちらが驚くような返事でした。1点の値切り交渉もありません。「ハイ、いつでも良いですが、私も欲しいものがあるのでちょっと見せてください」と、私は板の間へ下りました。

古染付皿、鎌倉彫香合、勾玉、猿投、須恵器、木彫残欠、瓦経、そば猪口、ガラスコップ、デルフトタイル、鎌倉文士の絵ハガキまで、凡そ他店で出会っていれば私が買いそうな品ばかりが並んでいます。心の声は「店ごと欲しい……」と云う気持ちでしたが、いま目の前にあり、次いつめぐり会えるか分らぬ平安の蓮弁や仏画の断簡を選び、「これを売ってください」と頼んでいました。それらの代価を差し引いた金額なら「今ありそうなので払います」と、青井さんが笑っていました。

品とお金を頂戴し、帰り支度を始めた私の脇に、小さな懸仏だけが残っていました。そう云えば、この懸仏は値も訊かれませんでした。思い切って「なぜですか?」と尋ねてみました。「人の品にこう云うことはあまり言わないのだけど、これからもあるだろうから」と青井さんは前置きし、「あれは贋物ですよ」と教えてくれました。その懸仏は知人の店で、可愛いし安いからと買っていたものでした。しかし買ってからは、ずっと引き出しの中に仕舞い込んでいたもので、ついでにと持ってきたものでした。「あーやっぱり」と云うのが、私の素直な感想でした。教えてくれた礼をのべて、懸仏も仕舞い込み、もう日の傾きはじめた鎌倉をあとにしました。

今回はここまでです。青井さんとの長い付き合いの始まった日の話で、すっかり長くなりました。お許しください。さらに肝心な、「贋作小懸仏」を買ってしまった失敗談が登場しないままで申し訳ありません。ここまで熱心に読んでくださった皆さんへ、ひとつだけアドバイスです。若い頃に私が買ってしまった、小さくて可愛い「小懸仏」は、今でも似たものが時々市場等に出てきます。いつもそれなりの値段(ホンモノなら安い、ニセモノなら高い)で取り引きされていますので、気がついていない業者の方も多いのでしょう。3センチほどで、いくぶんスレのある丸味のある体軀、小像の割に厚手、黒々とした良い金味で裏のホゾ(鏡盤への止め金具)は中央に一つです。

次回「輪線文そば猪口」「信楽自然釉大壺」と、真贋の深い森は続きます。尚、「真贋の森」の表題は、松本清張の小説にあるタイトルで、贋作作りのお話です。かつて実際におこった春峯庵や佐野乾山、永仁の壺事件等を下敷きにして、学会、マスコミをも巻き込んだ顚末を描いています。新潮文庫では『黒地の絵 傑作短編集(二)』に収録されています。興味のある方はご一読してみてください。


織部筒向付 桃山時代 高9cm

前回の「志野鉄絵四方筒向付」に続いて、美濃桃山古陶「織部輪線文分銅形筒向付」です。ゆったりとした筒で、上辺に織部釉、中段に鉄絵で数本の線文のみ、シンプルモダンな1点です。口縁から胴へ大きな欠けがあり、呼び継ぎ片で補われています。胴はツヤも良く、発掘古陶に多いカセはないのですが、やはり発掘と考えた方が自然でしょう。かつて桃山古陶は、発掘と伝世とでは価格的には大きなひらきがありました。如何にモダンで活きのよい美濃古陶であっても、発掘品と云うだけで安価に売買されており、その恩恵もあって私たち貧乏数寄者も桃山古陶を入手することができていました。「完品ならば……」とか、「いずれ伝世を……」と夢見ながら、陶片然とした発掘陶片を愛玩してきました。時が流れ、今や桃山伝世(?)と云われる紛らわしい古陶より、陶片然としていても活きの良い発掘古陶の方が需要もあり、高値で売買される時代となりました。時代の変化と云うか、良いものが真っ当に評価される骨董蒐集気運の成長と定着を、しみじみと感じています。



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