骨董蒐集はモノの価値を知り、熱心になればなるほど「見たい、買いたい、お金が足りない」の悪循環(骨董病)が始まりがちです。前回に引き続き、そんな悩める皆さんへの解決方法、骨董病克服のお話です。
良い骨董を買うのに借金(月賦)は当然と、すでに平常心でいられる重症者の方は別として、毎月の支払いにも苦労し、ほとほと難儀に思われている骨董病初期(現在進行形)の方や、兆候の見え始めた方へのアドバイスです。
■解決方法(前段)
大きな市場では往々にして、数千万円と云う法外な値のつく骨董品の売買があります。その値に驚きはするのですが、さて肝心の品物となると、サッパリ覚えていません。私には最初から縁も興味もない品であった訳です。では、高値のついた品が俄かに欲しくなるか……と訊かれたら、「まったく、なりません」と応えます。千万円以上する品では支払いもできませんし、お客さまも持ちません。つまり私にはまったく縁のない品で、欲しくもならないのです。
骨董は、高いから欲しくなると云うものではなく、欲しくなった品が生憎なことに高かった、と云う場合が常です。骨董蒐集に熱心になり、眼利きになればなるほど、そんな品との出会いも増えてきます。で、骨董病(月賦払い)が始まる訳ですね。前置きが長くなりました。解決法です。
いつもの極論です。「欲しくなる品に、出会わなければ良い」のです。出会うから欲しくなるのです。その存在さえ知らなければ、欲しくなることもなく、毎月の支払いに悩まされることもなくなります。「そんな殺生なー」と思われるでしょう。うれしい骨董との出会いこそが熱い人生そのもの、「これだけが楽しみ……」、そのような手応えを感じはじめたあなたなら尚更ですね。見なければ(出会わなければ)辛抱できたと判ってはいても、その我慢がなかなかできませんね。そんなあなたですから、骨董との出会いを求めて行動すれば、きっと何かに出会うでしょう。あなた好みの何かが、あなたとの出会いを待っています。一度で出会えなければ二度三度と、あなたなら無理矢理にでも探し出すでしょう。うれしい骨董と出会うトキメキを覚えた骨董脳(熱)は、新たな出会いが訪れるまで、なかなか治まってくれません。ならば「もう、骨董なんかやめてしまえ」などと結論付けられても、骨董屋が困ります。「心ときめく骨董と出会いたい……」、でも「借金(月賦)地獄もいやだ……」ですね。以下にお伝えする解決方法は簡単です。
まず、今の支払いが済むまではこれまでの蒐集品を愉しみ、新たな出会いを求めない。そして、完済後が問題です。すっかり身軽になり、また新たな借金……では悪夢の繰り返しです。晴れて骨董病(借金暮らし)から復帰したのですから、今日から買う品は毎月の支払いで済む(手持ち資金で買える)範囲と決めてください。これで解決です。これに慣れてしまえば、借金(月賦払い)の苦労から簡単に解放されます。
■解決方法のはずが……
が、「そのレベルの骨董では満足できないから、月賦払いにしてまで……」なのでしたね。最初に書いた、「数千万円の品は見ても欲しくならない」を思い出してください。数回の支払いで済む品だから欲しくなるのです。支払いが延々と続いてしまう桁違いの骨董なら、欲しくさえならないのに……。即金で買える骨董と、借金(月賦払い)までして欲しくなる骨董の差など、実は大した違いはないのかも知れませんよ。
「ちょっと寸法が小振りなので……」とか「伝世でこの肌味だから……」とか「鉄絵の発色が……」などといっても、骨董を知らぬ人から見れば、その差などまず気づけません。なのに、そのわずかな差に価値が見出され、数倍の値がついているのが骨董の世界です。
そうなのです! 骨董の眼利きとは、このわずかな差を見抜き、その価値を認めることのできる人たちのことなのです。たとえ売り値に数倍のひらきがあったとしても、「差」を見出した眼には、月賦払いにしてまでも欲しい品がそれなのです。眼が利いて、熱心な蒐集家になればなるほど、毎月の支払いでは済まぬ「どうしても欲しい……」骨董にめぐり会って(見つけ出して)しまいます。あれ、話が振り出しに戻りました。
「さあどうするか……」。道は二つ、買うか、諦めるか……。振り出しに戻ってしまったこのお話、まだ続きがあります。
天平古材花器 高22.2cm 東大寺伝来 清水公照箱
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「花入 天平古材/東大寺公照(印)」と墨書きされた箱に収まる、角古材の花入れで、東大寺の焼印が捺されています。目の詰んだ(木目の細かい)檜材ですので、箱書きどおりの天平古材(東大寺創建時の部材)と見て良いでしょう。歴史ある古代社寺(建造物)では、劣化や破損した部分に修理を施す際に、傷んで取り外した材を、このような花入れや炉縁、香合、茶杓、文机等に加工し、頒布してきました。これは改修資金の補充と云う意味ももちろんあったでしょうが、それ以上に、「今日まで多くの祖先により大切に守られ、連綿と受け継がれてきた社寺を(一部とは云え)、破損(劣化)したからと云って捨てる、そんな粗末な真似はできない」と云う、日本人に染みついてきた教え(慈しみの思想)から生まれた行為(作善)と見るのが妥当と思います。清水公照氏は、何にでも箱書きしたお坊さんみたいに一部では思われていますが、僧侶(信徒)として、祖先より委ねられたものを守り伝える、当然の行ないをされただけのことではないでしょうか。良寛、白隠、仙厓が、頼まれれば書画を書き与えてきたことと、何らかわることのない行ないであったと、私は思っています。
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