「骨董品は価値があり、高価なもの……」、多くの人が漠然と描く骨董のイメージは、そう云ったものでしょう。価値と価格は比例する。100円の菓子と1000円の菓子では、対価を払う(買う)人を納得させる差が歴然とあるはずで、それは骨董品でも例外ではない。さらに云えば、骨董品なのだから、それは高価である……。値を伴わぬ骨董などない。──骨董一般に対する、その様な古びた概念は、現在では完全に覆されています。それは、ある骨董商の出現と活躍によるものです。

■骨董最前線
2006年、渋谷区立松濤美術館で「骨董誕生」と云うユニークな展覧会がありました。戦前の益田鈍翁、原三渓から始まって、近年の青山二郎、秦秀雄、白洲正子に連なる、味と好みにこだわる蒐集家の系譜を俯瞰し、更には青柳恵介、勝見充男、千葉惣次等、偏りの際立つ蒐集の現在地に触れ、最後に骨董最前線として坂田和實のコレクションを並べたものです。

観客は興奮の面持ちで蒐集家垂涎の品々が並ぶ展示室を巡り、最後の部屋で、使い古されたボロ雑巾とコーヒードリップの布袋が貼りつけられた壁に迎えられます。展示されているものは錆びついたブリキ缶に針金、中には骨董らしい弥生壺や味の良い作業机もあるのですが、目につくほとんどが骨董好きの眼には無価値と思える様な、寒々しい品です。骨董(蒐集)の最前線とは、人が住めぬほどに荒廃化した地に捨てられ、忘れられ、朽ち果てた様な品を拾いあげ、愛でることなのか……と、半ば呆れ、恐怖に近い感慨に捉われたことを、今でもハッキリと覚えています。

「骨董誕生」の展示は、驚嘆と称賛、拒絶、様々な反響を呼びました。私は、ボロ雑巾は骨董じゃないだろう派で、周りのほとんども、程度の差はあれ「ないだろう派」であったと記憶しています。松濤美術館開館25周年記念特別展「骨董誕生」は、多くの骨董愛好家にとって、壁に飾られたボロ雑巾とドリップ布を色濃く記憶に刻む展覧会となりました。

■古道具坂田
「あの白洲正子も贔屓にする骨董屋……」。そんな呼び名で度々雑誌等の印刷媒体に坂田さんが取り上げられるようになり、坂田さん自身も他の骨董店とは明らかに一線を画した企画展を次々と開催し、更には千葉に個人美術館(as it is)まで建て、シンプルで美しい案内状を作って、蒐集家への発信を続けていました。今は骨董界の案内状もシンプルで美しいものが多くなりましたが、それらの基準(お手本)は、古道具坂田の企画展案内、DMであったことは間違いないでしょう。少なくとも多くの若手骨董商にとって、古道具坂田の歩んできた道は、意識する、しないは別として、目指す(歩んでいる)道と重なっているように私は思います。

しかし、雑誌で「最前線」と称賛されても、それに賛同し、品を購入してくれる人(客)がいなければ商いとしては成り立ちません。ボロ雑巾や使い古しのドリップ布は売りものにはなりません。古道具坂田を訪ねた多くのお客さまは、ボロ雑巾にさえ美を見出す“坂田和實の眼(センス)”に共感し、その眼が拾いあげた品々の中から、自身にとって価値のある1点を見つけ、それに見合う代価を支払い、購入を続けてきたのだと思います。それら多くのお客さまに買われていった品々の蓄積(轍)こそが、坂田イズムとも呼ばれる新感覚骨董の礎となっているのではないでしょうか。その象徴として、売りものではなかったボロ雑巾とドリップ布が記憶されてしまったことは何とも皮肉ですが、一方で、これほど坂田イズムにふさわしい品も他にはないと私には思えます。

「骨董品は価値があり、高価なもの……」と云った概念は、古道具坂田の提示した「ボロ雑巾(非価値の美)」によって、まったく新たな段階に入りました。デュシャンが便器を、ウォーホルがキャンベル缶を、ジャスパーがアメリカ国旗を作品(価値)にした様に、骨董界に於いて画期的な改革を成し遂げたのが坂田和實であり、それを後押ししたのが、古道具坂田を贔屓にした多くの蒐集家たちであったと云えるのではないでしょうか。

2012年、渋谷区立松濤美術館で「古道具、その行き先―坂田和實の40年」と云う展覧会がありました。ボロ雑巾やドリップ布に驚く来館者は、もういなかったでしょう。


法隆寺伝来百萬塔 天平時代 高21.5cm(左)

贋作も多く、憧れはあっても蒐集家には近寄りがたいイメージのあるのが「法隆寺百萬塔」でしょう。が、正確な知識さえ持てば真贋の判断は比較的容易です。天平時代に「百萬塔」が作られた背景と、真贋判断の要点について書かせていただきます。

■百萬塔制作の背景
天平時代に作られた百萬塔は現在、法隆寺にのみ残っています。それで「法隆寺(伝来)百萬塔」とも呼ばれます。しかし、このような木製小塔を、誰が、どのような目的で大量に制作し、寄進したのでしょう。

皇族間の争い(対立)が激しくなる8世紀半ば、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が発生します。この内乱に深くかかわる、当時の天皇(女帝)であった称徳(孝謙)天皇は、国の乱れの終息と人民(国家)の安泰を願い、年号を「神護景雲」と改め、「百萬」の小塔を造って官営の十大寺に寄進することを発願します。これが百萬塔制作の背景です。

■なぜ百萬の小塔
百萬塔は木製の小塔ですが、仏教における「塔」は、当初、釈迦の舎利(仏舎利)を納める目的で造られました。仏舎利を安置する塔は、飛鳥寺や法隆寺等の寺院では中心的な存在(建造物)でした。やがて舎利(遺骨)を納める塔ではなく、釈迦の教え(経)を納める塔が誕生します。聖武天皇の時代に日本各地に建立された国分寺は、「経典(金光明最勝王経)」を安置するための塔を中心とした寺院でした。「仏舎利の塔」に対して、経を納めた塔は「法舎利の塔」とも呼ばれます。百萬塔も、法舎利を納めた天平時代を代表する小塔で、孝謙天皇は、国分寺造営を発願した聖武天皇の娘です。

百萬塔の中心(塔身部)はくり貫かれており、そこに小さな経巻(陀羅尼経)が納められていました。納められた経は、「無垢浄光陀羅尼経(むくじょうこうだらにきょう)」で、「根本陀羅尼」「相輪陀羅尼」「自心印陀羅尼」「六度陀羅尼」の4種類があります。また、各陀羅尼経には長短2種類の存在が知られています。それらの経は、ほとんどが版で刷られており、世界最古の印刷物としても有名です。百萬塔本体に比べて、納められた「陀羅尼経」の現存は極端に少数です。それは、紙に刷られた経のため、長い歳月の間に原状を留めぬほどに損傷し、消失したためでしょう。余談ですが、納入された「陀羅尼経」は木版とも銅版とも云われ、現在までの調査では、版の材質は不明のままです。また、「陀羅尼経」は和訳された経ではなく、サンスクリットの音を、そのまま漢字で表わした経典とのことです。

■百萬塔寄進とその後
孝謙(称徳)天皇の発願で制作の開始された百萬塔は、現在までの調査により、神護景雲元年(天平神護3年)から神護景雲3年までの3年間(767~69年)にそのほとんどが造られたことが判っています。『続日本紀』に、宝亀元年(770年)天皇が「八年の乱すぎて、すなわち弘願を発し三重小塔一百萬基を造らしむ」との記載があり、その年には百萬塔はすでに完成し、十大寺に納められていたとされています。百萬塔の納められた十大寺は、法隆寺/元興寺/大安寺/薬師寺/興福寺/東大寺/西大寺/河原寺/難波の四天王寺等が想定されていますが、先の『続日本紀』には「ここに至りて功おわり、諸寺に分置す」としか記録されておらず、十大寺安置の根拠は、東大寺の古い記録文書(東大寺要録)等にそのような記載があることによります。

平城宮の内裏跡からも、発掘調査の折に百萬塔の残欠がわずかですが出土しています。これは、百萬塔が平城宮内で造られていたためではないかとも考えられています。

想定される十大寺の中で、東大寺/薬師寺/元興寺/興福寺/西大寺は、百萬塔を納める堂(小塔堂)を当時新たに建てています。そのような、1ヶ所に集中させた安置が災いしたのでしょう。それらのすべてが、後の戦乱等により焼亡(消滅)しています。ただ1ヶ寺、法隆寺にのみ百萬塔が残されたのは、十万基にもおよぶ小塔を1ヶ所に集中安置せず、分散保存したことによる処置が功を奏した所為かも知れませんね。

■百萬塔の流出
唯一法隆寺にのみ残された百萬塔のことは、江戸後期には一部の好事家により書物等に紹介されていましたが、本格的に人々の注目を集めたのは明治に入ってからです。明治初期、廃仏毀釈(寺領の廃止)により荒廃した法隆寺は、復興資金の援助を皇室(宮内省)に願い出ます。そして明治11年、数多くの宝物(寺宝)を献上し、褒賞金を下賜されています。百萬塔も48基献納されています。現在、東京国立博物館内にある「法隆寺宝物館」は、その折の献納宝物を展示する施設です。

この献納宝物は、当時広く一般にも公開され、貴重な美術品の保存、展示、公開のための博物館建設や、富豪による古美術品蒐集の気運がようやく芽ばえた時代と重なりました。法隆寺はそのような社会的気運の中で、国の許可を得、明治40~41年に百萬塔の一般への頒布(譲与)へと踏み込みます。その数は962基と一説には伝えられています。譲渡先は、大学、図書館等の公共機関が優先され、他を全国各地の有力者(富裕層)に絞り、応募させています。この折、法隆寺に残された百萬塔(百基)は国宝(現重要文化財)に指定され、また百萬塔頒布は新聞等でも大々的に伝えられ、多くの人々が法隆寺の百萬塔を知る契機ともなりました。以降も小規模に百萬塔頒布は行なわれましたが、法隆寺の復興以降は行なわれていません。

■百萬塔の発見
昭和60年代に入ると、昭和大修理と銘打ち、法隆寺では大々的な改修工事と収蔵品の調査が、国の事業としてな行われました。「昭和資財帳」と云われる、法隆寺に残る寺宝(遺物)の徹底した調査が行なわれ、大きな木箱に収められた百萬塔が多数発見され、再び世間を驚かすことになりました。既存の塔(重文の100基)を含め、法隆寺で確認された百萬塔の総数は、塔本体(塔身部)が4万5755基、相輪部は2万6054基です。陀羅尼経は約4000点が確認されていますが、多くは損傷の激しい断簡でした。

■百萬塔の鑑定
明治以降、百萬塔は好事家には垂涎の天平遺宝として、急激に人気が高まりました。しかし市場に流布する数は限られ、当然に高価ですので、必然的に数多くの贋作が作られました。当時は豊富にあった古材を用いての贋作もあり、それらは相当に精巧なものです。以前より、白土と胡粉地の違いや、経の納まる芯部の穴に指を入れての判別法等、様々な見解が述べられていますが、そのような判断は非常に心許ないもので、真贋判断の確証とはなりません。現在でも市場等に百萬塔が出ても、一部の専門とする業者を除けば、その真贋の判断はプロでも難しいものと思います。百萬塔真贋の判断において、法隆寺資財帳による百萬塔の仔細な調査は、非常に大きな成果を残してくれました。以下にいくつかの要点を列記します。蒐集の折の一助としていただければ幸いです。

まず、以前より云われる、塔身部に穿たれた経穴の深さ(指の触らぬ深さ)ですが、深さは一定では無く、指の触れる程度の深さの塔も数多く確認されています。

胡粉と白土の違いについては、白土(彩色)の多く残る百萬塔は、法隆寺に現存する4万基の中でも極端に少なく、ほとんどが木地となっています。私の経験ですが、以前に非常に保存状態の良い百萬塔を仕入れた折、持ち上げただけで白土が指にはっきりと付き驚いたことがあります。それほど剥落し易い白土ですので、長い年月の間空気に晒されていれば、そのほとんどが剥げ落ちて当然です。法隆寺より譲渡された百萬塔の多くは、白土の残らぬ木地が多いのですが、一部に白土の良く残るものもあり、それらは寄進額(寄付金)の多かった特別な人に頒布されたものであったと思われます。そのような状態の良い百萬塔が市場にウロウロすることはまずありません。また、法隆寺が譲渡する際に施したと思われる補修の入る塔が多くあります。それらの百萬塔は、屋根部の欠け等を別材で補ってあり、それを目立たなくするために白塗り化粧を施している場合もあるのですが、それには胡粉も使われていますので、胡粉があると云うだけで真贋の判断材料とはなりません。

では、何を基準に真贋の判断をするか、です。

■番号が打たれている
全ての百萬塔に、ではありませんが、百萬塔の多く(約4割)には、塔身の基壇部分に制作時の番号が打たれています。この事実を知る人は案外少ないので、覚えておいてください。番号は1~4まであり、それぞれ「一」「二」「三」、四は「二二」と「二」をふたつ並べた状態で薄く打たれています。「三」以外の刻番は薄いものが多く、轆轤目にもまぎれて、注意深く見ないと見落とします。この番号は、4種類の陀羅尼経を容れる際の目印として使われたのではと思われています。尚、現存する番号では「三」が一番多く、「四」はごくわずかです。これは、現存する陀羅尼経で「自心印陀羅尼」が一番多く、「六度陀羅尼」が非常に少ないのと合致します。刻番のある百萬塔は、法隆寺に残るうちの4割ほどです。残り6割には刻番は穿たれていません。そこで更なる鑑定基準が必要となります。

■墨書きがある
資財帳調査のため、法隆寺に現存する4万基の百萬塔を調べた結果、塔身部ではその9割近く、相輪部ではほぼすべて(9割5分)の木地部に、何らかの墨書きが残されていることが判明しています。墨書きの個所は、塔身部では基壇の底か三層目(一番上の屋根)の笠上部が多く、相輪部ではホゾ部の底か請花(輪)の上部がほとんどです。墨書きの内容は「左右」「日付」「人名」です。

墨書きの多くは経年による薄れや損傷、あるいは白土の下に埋もれたままのものもあり、はっきりと読み取れる例は少なく、資財帳調査でも赤外線等の最新機器を多用して判読しています。これらの人名や日付は、雇われていた工人のノルマを示したもので、「左右」の別は、ふたつに別けられた工房の略記号と推定されています。くずれた文字で走り書きされたような墨書きや省略表記も多く、判読には相当の知識と経験が求められますが、年号「神護景雲」の略である「云」のみの墨書きは比較的数が多いので、覚えておいてください。

■刻番と墨書き
この2点が、真贋鑑定の際に有力な判断材料となります。これらの事実は大々的な昭和資財帳調査が行なわれるまで、一般にはまったく知られていなかったことですので、贋作がその要件を満たしていることはまずありません。墨書きと刻番のある百萬塔であればまず大丈夫です。百萬塔を造った工人は数百人いた筈ですので、墨書きには様々なクセがあり一様ではありませんが、それらの仔細を知りたい方は『昭和資財帳5 法隆寺の至寶 百萬塔・陀羅尼経』(小学館)を参照してください。墨書き記載部分の写真も数多く載っています。

(注意:近年、贋物の百萬塔の底に墨書きの施された例を見ました。既存の贋作百萬塔に、にわかに書き込んだような硬い墨味で、文字にも伸びやかさがありませんでした。墨書きの事実を知り、「それなら……」と書き入れたものでしょう。幼稚な手法であり、そのような例はごく一部に過ぎませんので、刻番と墨書きを頼りとしても問題はないと思います)

■木質(木目)
本物の百萬塔は塔身部・相輪部それぞれに、共通する木質(木目)があります。それらは本物を数多く実見した上でなければ判断の材料とはなりませんので、ここでは触れませんが、掲出の塔身部基壇(最下層)の木質(木目)を拡大し、良く覚えておいていただければと思います。私自身は、これ以外の木質(木目)で、真正と思われる百萬塔を知りません。これは、百萬塔造納を発願した折に選ばれた木材の産地が1ヶ所であり、樹齢を含めてほぼ同質の材が切り出され、使われたことを物語っているように思います。木質(木目)こそ、贋作百萬塔では絶対に真似の出来ぬことがらと私は思います。

非常に長い資料となりました。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





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