受胎告知図では、天使とマリアの会話も描かれます。例えば「Ave Maria(アヴェ・マリア)」。〈AVE〉は古典ラテン語で丁寧な挨拶語ですが、中世では人類の祖である「EVA(エヴァ)」の反対読みという解釈もありました。楽園追放の原因となったエヴァに対して、救い主を身籠るマリアは人間の楽園回帰を叶えてくれるありがたい存在。語呂合わせのような神学的議論がまじめに論じられていました。
宝石細工のように華やかなフラ・アンジェリコに絵の中央、天使とマリアの間に三列の金文字が並びます[図1]。そのうち上下の列が天使の言葉。省略記号を使って短縮していますが、「ルカによる福音書」第1章35節のセリフで、上が〈SPS S SVPVEIET I TE(聖霊があなたに降り)〉、下が〈VIRT ALTISI OBVBRABIT TIBI(いと高き方の力があなたを包む)〉。間の一列がマリアさまの返答ですが、読み取るにはちょっとしたコツが必要です。なにしろ、言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(「ルカによる福音書」第1章38節)を省略記号とともに記す〈ECCE ACILLA DNI VBV〉という文字は、神様の視点に合わせて上下逆さまなのです。
天使とマリアの会話は、北方の画家ヤン・ファン・エイクも描いています。案外気さくに微笑みながら「めでたしマリア、恩寵満てるものよ」と天使。「主のはしためです」とマリア[図2]。
ゴシック絵画では会話を「吹き出し」に入れることもあります[図3]。「主があなたと共におられる」という天使のセリフを記した巻物がマリアを包み込むようです。その巻物を飛び越して来る小鳥と小さなキリストも気になりますが、こうした表現は中世後期の霊魂論によるとの説があるそうです。受精直後の胚には魂がなく、男児は40日後、女児は80日後に神が息を吹き込むことで魂が宿る、と考えられていました。ただしスコラ哲学者トマス・アクィナスによれば、キリストは特別で受胎告知の瞬間から魂も肉体もあったとされます。小鳥は魂の表現でもありますから、もしかしたら、トマスの霊魂論にもとづくのかもしれません。
アントウェルペンには貿易港があり、イタリアとの交流も早くからあったことから、「アントウェルペン・マニエリスム」という独特の様式が生まれました。その特色はネーデルラント風の細部描写と、ルネサンス風の立体的で大胆な人物描写です。ヤン・デ・ビアの板絵では、人体と遠近表現はルネサンス風ですが、言葉はゴシック風[図4]。純潔を象徴する百合、曇りのないガラス瓶、子宮を表す頭陀袋、旧約の世界を表す巻物、新約の世界を表す冊子本。これでもかとばかりに象徴的な事物を描きこんでいるのはネーデルラントのお家芸と言えるでしょう。マリアは書物を読んでいますが、左手前の台には指貫、鋏と白い糸玉があって、さっきまで繕いものをしていたことがわかります。連載2回目で書いたように、古い受胎告知図は『原ヤコブ福音書』の記述通りに、糸巻きを手にした姿で描かれたことも関係しているでしょう。めずらしいのは、受胎告知の瞬間を見守る白い猫。子羊のような穏やかな顔をしています。その背後には鼠も描かれています。
聖母信仰が高まりを見せた中世末期、受胎告知図は複雑になってゆきます。聖母マリアの象徴をありったけ描きこんだり。なかで、一角獣狩りのモティーフは16世紀初頭のフランス、ドイツで好まれました。獰猛な一角獣は処女にしかなつかず、狩りをするときは清純な乙女をつかっておびき寄せます。その膝に一角獣がやってきたときが狩りの始まり。高らかな角笛を合図に、猟犬が襲いかかります。
この一角獣の物語は2世紀頃すでに、受胎告知を暗示するものとされていました。一角獣はキリスト。角笛を吹くのは大天使ガブリエルは。巻物のセリフは受胎告知場面のものです。聖霊の鳩の後方、十字架を担った赤ちゃんキリストも降下中。
マリアの周りには、「雅歌」など旧約聖書に由来する象徴が盛りだくさんです。純潔の象徴は「閉ざされた園」と〈vellus Gideonis(朝露の降りた羊毛)〉(マリアの右の白いもふもふの毛皮。旧約の英雄ギデオンの奇蹟にちなむ)。〈fons signatus選び出されたる泉〉、マナ(エジプト脱出後、砂漠で飢えたイスラエルの民に天から降った奇蹟の食べ物)で満たされた〈una aurea(黄金の壺)〉はマリアの豊かさを示すものでしょう。モーセが赴いた聖地の「燃え尽きない芝」も純潔のシンボル。猟犬にも〈veritas(真実)〉〈pax(平和)〉〈misericordia(慈愛)〉〈iusticia(正義)〉とのラベルつきで、これでもかとばかりに聖母の徳を謳っています。