天使の来訪を受けた乙女マリアは、いったいどのように神の霊を宿したのでしょうか。中世のひとびとも、処女が身籠るという奇蹟に具体性を求めました。聖書注釈では、マリアの質問に対して、天使が以下の言葉を発したときが、懐妊の瞬間とされています。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる」「ルカによる福音書」第1章35節
この一文のどこに着目するかによって美術にはさまざまな表現があります。順にみてゆきましょう。
初めに「いと高き方の力」。傑出した金工細工師だったニコラ・ド・ヴェルダンの手になる大きな祭壇装飾の一場面[図1]。この受胎告知図では、七宝で彩られたオーロラのような波が空から迫ってきています。この「波」をキリスト教図像学の大家ゲートルード・シラーは「いと高き方の力」の表現としました。天使の指先からマリアの顔へ光線のようなものが放たれているのも気になります。
続いて「影」。「いと高き方の力があなたを包む」の「包む」と和訳されている動詞に、ラテン語訳聖書は「影で覆うobumbrabit」という語をあてました。15世紀以降、絵画に幾何学的遠近法や陰影法が導入されると、意味ありげな「影」が受胎告知図に描かれるようになります。南仏で活躍したネーデルラント画家ジョス・リーフランクスの受胎告知図[図2]では、黒い影が聖母を覆い尽くそうとしています。天使や壺の影から類推すると左手前上方に光源があるようですが、聖母を覆う影は特別に強く黒く、聖母が着ているマントと一体化するようです。「いと高き方」の「影で覆う」表現に違いありません。
こうした表現は、地域を問わず15世紀以降の受胎告知図に散見できます。第1回であげたロレンツォ・ロットの絵でも、天使の影が不思議に浮き立っています。フィレンツェのサン・マルコ修道院僧房の壁を飾るフラ・アンジェリコの受胎告知図では、天使や修道士には描かれない影が、マリアの背後にだけははっきりと見えます[図3]。これも「影で覆う」表現なのかもしれません。
そして、最も多いのが、「鳩」。「聖霊があなたに降り」という部分を、鳩のかたちの「聖霊」がマリアめがけて飛ぶようすで描きます。その起源は古く、第2回で挙げた5世紀のモザイク画にも登場します。初期には、9世紀にフランス北部で制作された詩編集『シュトゥットガルト詩編』[図4]の一葉のように、鳩はマリアの方へ飛ぶだけでした。
鳩の「軌道」が明確になるのは、12世紀頃から。図5のように、マリアの頭上に降下する図が広まります。そして12世紀後半以降、聖霊の鳩はマリアの身体のあちこちをつつきはじめます。とくに多いのが、マリアの耳にくちばしを寄せる構図です[図6]。天地創造を成したのは神の言葉であり、受肉を成したのもまた神の言葉。言葉は耳で聴くので、聖霊の鳩も耳から胎内に入ったという理屈です。
コズメ・トゥーラの受胎告知図[図7]のように、鳩が耳から侵入しようとする絵も生まれました。
聖霊の鳩の侵入経路は、耳だけではありませんでした。なかでも特異な表現がフィリッポ・リッピの受胎告知図に見られます[図8]。なんと、マリアのお腹に小さな穴が開いていて、金色の光をもやもやっと放っています。聖霊の鳩は金色の渦を巻き起こしながら空中で静止し、マリアの穴へと着地の準備をしているかのようです。
お腹へ向かうのが鳩ではなく、ステンドグラスの光というめずらしい表現もあります。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの工房作とされる受胎告知図では、マリアのお腹に薔薇窓を通った鮮やかな光が注がれています[図9]。窓の外では天使たちに囲まれた神さまが光線の束をマリアへと送っており、光は薔薇窓の形そのままにマリアを照らしています。よく見ると、マリアの祈祷書が置いてある家具の背の部分にも薔薇窓の意匠が繰り返されています。フランスの美術史家ミラード・ミースによると、マリア讃歌のなかには、窓ガラスを透過する陽の光のように、マリアの純潔も懐妊の前後で変わることがないと謳ったものがあるそうですが、この絵はまた別のように思えます。受肉というマリアの肉体を通じて得た神秘を、ステンドグラスによって色と形を得た光で表しているのではないでしょうか。
それにしても、お腹に光があたったマリアさまの気持ちよさそうなこと!