12 固定と拡散







ミックステープをひたすら作っていた時期があった。90年代中頃から後半にかけて。ミックステープというと格好がつくが、好きな曲をただただ1本のテープにあつめただけのものだ。当時、録音のためのカセットテープはコンビニでも売られていてすぐに手に入った。 ラジオを聴いて気になった曲をリストにし、CDを借りてきて、ラジカセでテープにダビングするのだが、まず曲順を決める。この曲のあとにこれかな、とか、ここまで入れたらあと残り何分くらいだからこの長い曲は入らないなとか、計算しながら曲を配置する。1曲終わったら一時停止のボタンをがちゃりと押し込まないとならないので、ラジカセの前から離れられない。

好きなものを継ぎ接ぎして、ひとかたまりにする楽しさ。テープにはタイトルをつける。ただその日に借りてきたCDから耳触りの良かった曲を入れただけのこともあれば、テーマを決めて選曲して構成したこともあった。

テープは1本しか仕上がらない(ダビングすれば同じものも作れるが、音質は著しく変化する)。友達にそれを渡したいと思ったら、もう一度まったく同じことを繰り返す。自分がそういうミックステープをやりとりした友人は3人いた。1人はいまも交流があるがもうテープはつくらない。1人は亡くなってしまい、1人は没交渉だ。その友人たちがくれたテープを見ると、渡してくれたときの表情や、あの頃あんなマフラーしてたな、みたいな周辺情報を思い出す。同時に、自分がその人たちに渡したテープがいまどこでどうなっているのか、と思う。燃えないゴミとなって回収されてリサイクルされていたとしても全然かまわない(先日、たまたま見学に行ったリサイクル工場は、もともと「もの」だったものが粉砕されて煌めき、また次の場所に手渡されていく美しい光景だった)。

2000年代に入る直前くらいにCD‐ROMに音源を書き込めるようになると、便利さゆえにすぐそちらに移行したが、いま真っ先に思い出せるのはCDにデータを焼き付けるボタンをクリックする感触ではなくて、がちゃんとラジカセのボタンを押すフィジカルな感触の方である。

ものをつくる、というのは、固定させることだ。自分が感じたことを、素材を配置させ、あるときは機能に落とし込み、ニュアンスを質感に固定させる。その繰り返し。

固定されたものが世界に手渡される。それは拡散で、他者の手に渡らず自分の身の回りだけだったとしても、自分の環境の一部となってそれは自分を少し変化させる。他者に手渡されたらその誰かの環境の一部となってほんの少しその人を変化させているはずだと思う。

カセットテープにダビングされた曲はテープの磁性体に信号として記録されて、質感を変える。それが増幅されて誰かの耳に届くとき、その曲はそのテープからしか得られない質感や、イヤホンで聴くのか、その人がその時どういう場所にいるか、季節はいつなのか、晴れているのか、誰といるのかなどに左右される。録音されたものを聴くのだって一回性のものだ。昨日いいと思ったものが今日もいいとは限らない。常に受け取られ方は変化する。

カセットテープに曲を焼き付けていた人は本当にたくさんいるはずなのだが、つくられたテープは多分ほとんど捨てられて残っていない。セカンドハンドで売られるカセットはほとんどが正規品で、自作テープのセカンドハンド市場がもっとあってもいいと思うのだが、有名なDJがつくったミックステープとかでないとなかなかそうはならない。いまは似た行為がインターネットにプレイリストとして拡散していく。

デジタルの仮固定は波のように温泉のように流体に浮かぶ気持ちよさがあるのだが、自分はふとあたりを見渡して碇を探してしまう。一度固定したい。固定から拡散、という順序が大事、という感覚は前時代的なものだろうか。そう思いつつも自分は固定し、拡散を続ける。

固定と拡散を繰り返して環境が営まれる。というか、固定と拡散をどう繰り返すか、が、環境がどういうものであるか、に作用する。だからいつも、ものをつくることには丁寧でいなくてはならない、そう思う。




今日の一曲:Sketches of Views of Smalltown / Yuichiro Fujimoto
https://youtu.be/wQJdi6FtTTs?si=oHuzPErG9uMw_kR0


今日の一文:デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』

うち捨てられた物語の断片は拾われた。そんなものに興味を持つのは、この上なく忍耐強い学者か記録の天使意外誰もいなかった。そしてこんどはその天使が物語すべてを支配し始める。そのすべて書きとめるべく彼は懸命にその断片を継ぎ合わせようとするがうまくいかず、わけのわからないものとなり、せいぜい脇にとどまり、その他すべての部分を引き立たせ、後に残されたデータの山はわれわれを脅かすのみ。──ジョン・アッシュベリー「システム」/1972年(若尾裕+柳沢英輔訳)


12回にわたって、つらつらとその時感じたことや思い出したことを書き留めてきたのだが、今回でこの連載は終わります。結局、「工芸とは」という直接的な話にはならず、連載名と内容があっていないというお叱りを受けそうな気配は消えなかったのだけれど、自分としては、工芸とはなにかを考えると「ものをつくることはどういうことなのか」を考えること、というふうになってしまい、ともかくも「自分の手と頭でつくり、自分のまわりの環境について考える」という機会をいただいたことに感謝しています。お読みいただいた方々、どうもありがとうございました。


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