3 往復の受けとり
理由はわからないけれどなんか「いい」というものと出会うときがある。というか「いい」と思ったときにその理由がすぐわかる、ということはむしろ少ない。自分はその良さ成分のなかにまずその「手と思考の往復」の軌跡の量を感じているのだと思っている(アウトプットとインプットの往復、と言ってもよいかもしれない)。それは、どれだけやったか説明されないと認識できないものではなくて、たぶん皆が無意識に感じることができる「いい」で、しかもひとめ見ただけでわかることが多い。その「いい」が大前提にあって、そこから、それぞれの背景や特徴を探っていくことで「いい」の理由が説明されていくこともある。その作業ももちろん大切なのだが、まずそのひとめの「いい」をなぜ自分たちは感受することができるんだろう、ということを以前から謎に思っている。
数年前から東京の浅草に事務所を構えていて、構えているというほど大仰なものではなく、知人が借りたビルの一角に間借りしているだけなのだが、その周辺はマンションの隙間に革関係の工房や問屋が点在していて、端々にものづくりの気配があることと、あと川が近いことが気に入っている。
そのビルの1階ではRABAというスペースがビルに入居しているメンバーによって運営されていて、そこで開催される展示を自分も手伝うことになった(展示のグラフィックと印刷物のデザインを担当した)。内容としては写真を撮る人が集まる「Studio 3Năm」というスタジオがベトナムにあり、その周辺の人たちがつくった本を15冊集めて紹介する、写真も展示する、というものだった(4月25日〜5月7日で展示は終わったが、カタログもあるのでぜひ。@raba_info https://www.instagram.com/p/CrSQuLlPKFL/)
届いた本は、1冊しかつくられていなかったり、多くとも数十冊しか発行されていない、いわゆる「マケット」(写真集をつくるために試作するダミーブックのこと)のようなものが多く、多くの人に見せるための本づくりというよりは、自分がなにを撮っているのか、なにを見たいのか、撮ることを通してなにを考えているのか、を、本をつくりながら内省するためにつくられたものが多かった。自分はこの本たちを、まず動画で見た(実物がまだベトナムにあり、どんな本なのかを紹介するために1ページづつ丁寧にめくられた動画だった)。15冊ぶん見終えたとき、正直なところ、自分は自分の最近の本のつくりかたに対して猛反省することになった。
仕事をしていると、どうしても制限とどう付き合うかということが隣り合わせになる。予算や時間や関わるメンバーの思惑。その制限があるおかげでひとりでつくるときには到達できないところに連れていってもらえることも多いが、役割のなかだけで立ち振る舞うことも増えてしまう。ある程度のところで試行錯誤を止めてしまう状況。自分はそういう状況に慣れすぎてはいなかったか(いた)。
ベトナムから届いた本たちは、いわゆるクオリティ(つくりが丁寧とか、いい素材を使っているとか)という意味では高くないものが多いし、写真そのものだけを見たときに人をあっと言わせるものなのかというとそうでもないものもある。しかし、そこには、自分が撮った写真を組み、時間をおき、また見て考え、触りながら再構成し、撮った写真とがぶりよつでむきあったという奮闘が色濃く見られ、その結果、よく見る本のかたちからかけ離れていったものもある。そのかけ離れには必然性はないのかもしれないが、頭のなかのイメージと、目の前にあらわれたものを突き合わせ、更新していく作業は、歩道橋の上を歩くときのようなぐらぐらした気持ちみたいで、それでも先に何かがあるという実感を確かめながら進む、みたいな、それはものをつくるということの剥き出しの感触という印象があったし、そこからしか生まれないなにか、という印象もあった。そういうふうにつくられたものはどうも、それを見る側の意識になにか食い込んでくるものがあるのだった。
今日の一曲:Nam Thế Giới/Shoe!
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https://www.youtube.com/watch?v=FLi5UO6FmZcA
今日の一文:戸谷成雄『彫刻と言葉』
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物質と物体が分離したのは何時頃のことだろう。物体の内部は物質によって充満している、物質は形を持たないが物体の概念が物質に肉体を与える。それ自身見ることができないにもかかわらずその存在を物体の現われによって示すものは、光に例えることができよう。内部に物質という光を宿した物体は、分裂を繰り返し、影となる。影はイメージの共通感覚を呼び覚まし、言語化した意味としての物体を再生産する。