8 人工と自然





ガラスという素材が以前から少しひっかかっている。ガラスは自然素材なのかどうか。素材はすべて天然由来ではあるらしい。自然界がたまたまつくり出したガラス質、黒曜石というものを使い出したのが人類とガラスの出会いらしいが、いま素材として使われているガラスは人の手が介在しなくては生産できない素材ですと言って良さそうだ。ものとして加工された際にはとっても均一で人工物的なイメージをもつことも多い一方、揺らぎをふくんだ状態としても目の前にあらわれる(琉球ガラスとか)。固まった状態のガラスのことを「粘度が非常に高くなった液体である」という捉え方もあるらしい。

そして、透明できれい。しかしなぜ透明なものはきれいなのか。衝撃で割れる。そこも魅力的だ。手からiPhoneを滑り落としてガラス面を割ってしまい「2秒前に時間を巻き戻したい」と瞬間的に願った人が一体何人いるか(自分はよくやってしまう)。でも、割れて機能を失ったガラスのディテールはとても美しくて見惚れてしまう。不思議な素材だなと思う。

古代ガラスは砂、珪石、ソーダ灰、石灰などの原料を摂氏1200度以上の高温で溶融し、冷却・固化するというプロセスで製造されていた。ガラス製造には大量の燃料が必要なため、ガラス工房は森に置かれ、燃料を木に頼っていた。そのため、その森の木を燃やし尽くしたら次の森を探すというように、ガラス工房は各地の森を転々と移動していたのである。ガラス工場が定在するようになったのは石炭と石油が利用されるようになってからである(wikipedia/2023年10月12日)。

という制作過程を見ると、なかなか苛烈な素材だなとも思う。

砂浜を歩いていて、プラスチックの容器が転がっていると、異物、ゴミだなと感じる。静かな浜辺に打ち寄せられたプラスチックの容器は歓迎されるものではないだろう(海の向こうから届いてしまったパッケージを見て遠方に思いを馳せたりする遊びを楽しんだことは何度もあるけれど)。いっぽう、そこに落ちているのがガラスびんだと、ゴミだなとは思うけれどもそこまで嫌悪感を抱かないかもしれない。波にさらされて細かくちぎれたプラスチックはそれでもまだ胸にちくりとするが、波でガラスが研磨されて小石のようになったものはむしろ発見した時に喜びがある。そう考えるとガラスは自然の側に近いのだろうか。

先日、21_21 DESIGN SITEで開催されていた企画展「Material, or」で光学ガラスという素材の大きな塊を見た。これでつくられるものは工業製品であることがほとんどだろう、ほとんどというか、これはものすごく精密にコントロールされた人工物のための素材らしい(〈本品は1℃の温度変化に対してガラスの伸縮を0.00002mmほどに抑えたレンズで、同種の技術でつくられたものは、次世代超大型望遠鏡にも採用されています〉/展示キャプションより)けれど加工される前の塊の状態はゴツゴツぬめりとしていて古代からずっとあったものを持ってきたと言われても納得してしまうような野趣的な存在感があって驚いた。

光学ガラス(こうがくガラス)とは、レンズ、プリズムなどのように、光の反射、屈折によって画像を伝送する光学素子の材料となる高い均質度をもったガラスのこと。1609年にイタリアのガリレイが凸、凹両レンズを組み合わせた望遠鏡で天体観測をしていることから、ガラスは人間が最初に開発した機能性材料といえる(独自研究?)(wikipedia/2023年10月12日)。

(人間が最初に開発した機能性材料、というところにほうほう、と思うが、「独自研究?」というツッコミが入っている)。自分は写真を撮るのが好きな方なので、レンズのガラスの質で写る像が変化することをなんとなく身をもって体感している。写真というのは、人間を通してではなく道具を通して世界を見ることができるものとして驚きを持って迎えられてきたメディアだが、その道具の精度を高めたり低めたり「こう見たい」「こういう像が欲しい」と考えて設計するのは人間だ。ここでも人工と自然のあいだのグラデーションの上でふらふらするガラスを考える。

余談だが、数年前に友人に教えてもらってから愛聴している「ゆる言語学ラジオ」というPodcast(とYouTube)番組があって、パーソナリティである男性二人は「うんちくおじさん」を自称しており、うんちくを収集するのがライフワークだそうで、その番組には時々「面白いwikipediaのページ」を紹介するというコーナーがあって、今回の上の記述はそれを思い出してwikipediaを読むだけでやってみようと思ったのだが、付け焼き刃ではなかなか難しかった。

そしてこれは完全に余談だが、そのお二人は20代後半なので「おじさん」を自称するのはまだぜんぜん早いのでは、というか、もっと歳を重ねた自分から見たら彼らはまだ全く「おじさん」ではないのだけれど、他にもそういう身振りをする20代後半~30代前半の男性がまわりにちらほらいて、彼らはおそらく彼ら自身の20代前半とは色々な面でタームが変わってきた「脱若者」の状態を「おじさん」と言い表していて、それは社会に出て変化した自分に戸惑いつつ、状態に精神をフィットさせていく前向きな試みなのだろう(そして彼らはみな「おじさん」化したことによって権威側に移行することに非常に自覚的に慎重になっている)。おそらく彼らの本当の「脱若者」はこれからで、完全に中年にフィットした人は自らをそう呼称しなくなる人が多い気がしている、などと思いながら聴いている。








今日の一曲:INOYAMALAND / GLASS CHIME

https://www.youtube.com/watch?v=COgrFSkHfq4


今日の一文:東浩紀『訂正可能性の哲学』

アーレントのいう「世界」は自然環境のことではない。それは、「人間の工作物、人間の手による制作物、あるいは人間がつくりあげた世界のなかにともに住まう人々のあいだで生じるできごと」の総体、すなわち人間がつくる社会環境のことである。ひとは自分がつくったものに守られて生きている。そのような「工作物」には道具や彫刻のように物理的なものもあれば、法や文学のように抽象的なものもある。いずれにせよ、それらは個人が死んだあとも共通のものとして残る。だから公共性の基盤になる。アーレントはそう考えた。


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