2 行きつ戻りつ





数年前から2000年代のデジタルカメラが気になって、時々買って使っている(数千円しないくらいで手に入る)。特に、手のひらに収まる気軽さを売りにしたような「コンパクト」で「安価な」なものが気になっていて、発売されていた当時は自分は特に気にかけていなかったタイプのものだ(その頃はコンパクトカメラはリコーのGR、と決めていて、道具として信頼できるタフな印象と、質実剛健な佇まいがいいと思っていた、価格はやや高めだったが納得感があり、リコーはいまもそのスタンスを変えずカメラをつくっていてすごい)。いまは身体の一部と化したスマートフォンに当たり前にカメラがついているので手軽なデジタルカメラを買う必要はどこにもないのだが、スマートフォンのカメラはどうも写りすぎるというか、見ている感じに近すぎて、現在でしかないというか、現在すぎるというか、褪せない記憶、というのはちょっと怯む。

当時のデジタルカメラの写りはいま見るとしょぼくれている。当時もしょぼくれている、と思ったかもしれないが、それより目の前の光景が画像として即座に生成される新鮮さのほうが大きかったし、生成されるデジタル画像の質感に馴染みがなく、その馴染みの無さが新しさだった。が、その写りは、1ヶ月前にあんなことあったなとふとなにかを思い出すときのぼんやりとした脳内の残像に質感が似ている、といまの自分は感じ、それが妙にしっくりくる。

引越しのための整理の際、自分が学生の頃に撮っていた写真が棚の奥からごっそりと出てきたのだが(ニコンのFM2というフィルムカメラで撮ったもので、構図の勉強になるからと美術予備校の講師に勧められて購入し毎日持ち歩いていた、その頃はまだ携帯電話にカメラはついていなかった)、その写真はあまり昔のものという感じがせず、写っている友人、そのうちの数人とは先日会ったばかりだったのだが、なんだかそののままだなあという感じで意外と感慨がなかった。しかしまた別の日に大人になってから知り合った友人と呑んでいるときにその人や共通の友人の学生時代の写真(フィルムのコンパクトカメラで撮られたもの)を見せてもらったら、ああああこれは懐かしい! とつよく思ったのだった。その頃のその友人を自分は見たことがないのに、懐かしいというのはおかしいが、つまり、自分は学生時代からの友人のことは会った頃の記憶と重ねていまも見ているせいで時間的な近さを感じ、重ねる記憶がない知人の昔の写真は印象にジャンプがあるから遠い過去のことだと感じ、知らないはずの懐かしさが生まれてしまうのだろう。

先日、あざみ野にある市民ギャラリーで初期の写真(1800年代後半、コロディオン方式ガラス湿板ネガで撮られ鶏卵紙という印画紙にプリントされたもの)を見たのだが、ボケている部分がいっさいなく、あまりにくっきりと細部が再現されているせいで逆に現実味がなくて、古い洋書でよく見かける細密画のようだなと思ってしまった。その写真手法が広まったからその絵の描き方が広まったのか、当時の人たちには光景はそういうふうにくっきりと見えていたのか、どちらだろう。自分にはああいう風に光景が見えたことはあまりない(晴天時に飛行機に乗って俯瞰で街を見たときにだけそう見えるかもしれない)。「目の前のものがこう見える」というのは普遍的なのではと思いがちだか全然そんなことはなく、時や状況や見ている人の思考の枠組できっと違い、皆が皆、違うものを見ているし、自分が見ているものも一貫していない。

いま自分がスマートフォンで撮る写真も10年後に見ればおそらく「ああなんか懐かしいなこの質感」ということになるのだろうし、時間が熟成させるのか、技術の進化がそうさせるのか、進化といったが、新しいものが前で善で、旧いものが後で悪、というのはよく考えたらそういうものでもなく、行きつ戻りつ、自分はこれがいましっくりくるというのを探す、そしてそれは変化し続ける、のが2020年代という感じもする。10年後にはその感覚はどうなっているだろう。

ところで、2000年代のコンパクトデジタルカメラはプロダクトデザインも興味深い。この頃は技術革新に勢いがあってカメラの性能がどんどん上がり、新製品が毎年出て、市場が活況だったのは覚えている。活況だったからこそ面白いものやちょっと変わったものも多く発売されていて、instagramでその頃のカメラ情報を見ることができると友人に教えてもらったのだが、なぜかタイのアカウントが多く見つかる。タイにはセカンドハンドのデジタルカメラをinstagram経由で売り買いするシーンがあるようで、10代〜20代向けに見えるアカウントが目につき、ファンシーなステッカーが貼られ「デコ」られたものも多い(それ混みで選ぶのかもしれない)。そして、くるりとまわるレンズや液晶。飛び出るフラッシュ部品。手に馴染むということを追求した結果なのか、角丸を通り越して米粒を拡大したような曲線で造形されたもの。カメラは黒いものだという前提がそもそもないようなカラーリング(メタリックシルバーやブルー、レッド、シャンパンゴールドやピンク、グリーンにパープル)。15〜20年前くらいのものだがどれも新鮮に見える。よく、時を経たものに「味が出た」という言い方をするがこのカメラたちの外観はそういう意味での味は出ていない、しかし生成される画像には「味」を感じる。そのギャップが面白いのかもしれないい。かたちを新鮮に感じるのはたぶんカメラを一から再考してやろうという気概がかたちに満ちているせいで、画像に「味」を感じるのは進んでしまった技術を振り返って眺めるような気持ちになるからなのだろう。





ちなみにこのブログの写真は2010年発売のオリンパスμ-5010で撮っていて、しばらくそれで続けてみようと思っている。


今日の一曲:清水靖晃/Ricoh 1

https://youtu.be/NV6ImM7vdBA


今日の一文:滝口悠生『茄子の輝き』

いま思い出しているパーカーの赤色の鮮やかさもまた、その時自分が目にしたものではなく、きっとその写真を見返し見返ししているうちに覚えた色で、あの日あの時の日射しやパーカーの色は、きっともっと鮮やかで、妻の動きに合わせて輝きながらどんどん赤くなるようなそういう色だったはずだった。


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