10 余白と介在
今回は始終自分の話で恐縮なのだが、先日、知人に「米山さんの仕事は余白を大切にしていますね」と評していただいたことがあった。余白。確かにそうである。指摘されるまで忘れていた、というくらい、余白を生み出すことを目的として全ての活動を行なっている気がする。自分が装丁を手がけた本を書店で見ると、そこにぽっかりと穴があいたように感じることが多い。そこに誰かが落ちてくれないものか、と思っているし、自分もそういうものに落ちてきた。
余白には吸引力がある。埋め尽くされた状態の迫力というものも非常に魅力的ではあるのだが、それに対峙すると、1歩引いてしまう。跳ね返されるというか。その跳ね返しにひれ伏したあと、2歩近づいて、ディティールをつぶさに見ていくというじっくりとした楽しみももちろんあるのだが、なぜ自分は余白のある状態をよきものと考えるんだろうか。
白い紙というのはすごい。空白という存在そのものだ。紙を専門にしている人なら、これはあの銘柄だなとか、斤量(紙の厚みの単位)はどのくらいだなとか、縦目だなとか(繊維の流れのこと)、表面加工されているかどうか、B5サイズだな等々の情報を瞬時に読み取ることができるが、そういった訓練をしていない人なら、ただただ「そこになにもない状態」と感じるだろう。まっさらな白い紙を渡されて、なんでもいいからこれで何かやって、と言われたら、多くの人が戸惑うのではないか(躊躇なくなにかを書いたり描いたり折ったりくしゃくしゃにしたりできる人は普段からかなり創造的な人のではないかと思う)。白い紙には、こちらに何かしらの行為を要請してくるようなアフォーダンスがある、ともいえる、と以前誰かが言っていた、それに怯むのか、飛びつくのか。
ちなみに、その白い紙に1本線を引くと、空白のもつ無限の可能性を秘めてしまっている要請が無限ではなくなって、ちょっと限定される。そうすると、逆に行為の促しの効果が少しおおきくなる。ここで半分に折ったらいいのかなとか、線に対してまた線を描いてみたらいいのかな、とか。自分がふだんやっている作業はその、空白に線を引くような行為なのかもしれないとも思う。
なにかものをつくるとき、こう見てほしいとか、こう使ってほしいとか、そういう気持ちが生まれてしまう。作り手の意識の介在。それがないとものはできないのだが、同時に、それを最小限にしたいという気持ちもある。なぜか。ものは作り手のものであると同時に、受け手のものでもあるからだ。なるべく余計なことをせずに、なるべく受け手の意識を阻むことのないようなものをつくりたい。だってものをどう受け取るか、という行為はとても創造的なことであるからだ。だから、つくるというよりはちょっと線だけ引いて、余白を残しておく。
話が大きくなったのでいったん狭めたい。自分の名刺は、白いプレーンな紙に名前住所メールアドレスの情報が入っていて、あと、折れ線を1本入れてある。それを受け取った人が、え、これ、折れるんですか、と訊いてくれると少し嬉しい。その場で折ってくれる人は少ないが、もし折ったあと名刺入れに差し込んだらそこに空間ができるだろう。それもまた余白だなあと思う。
今日の一曲:Off Om / Jeff Parker
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https://youtu.be/H3G9Q-t6yWo?si=tFNWBlwuN20PAbSF
今日の一文:澤直哉『架空線』
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思い浮かべる──人間の思い、心や言葉は、まず虚構として空に架けられる、なにやら宙に浮いたものです。しかしそれは、現実のどこかに必ず着地する。私がブックデザインや本に強い関心を持っているのは、ひとりの小さな人間の心や言葉が生み出す虚構が、どのようにして形ある物となり、複数の人間に共有される現実となるのか、という問いが、文学の、もっといえば人間の思考様式や存在形式の根本に関わるのではないか、という直観があるからです。
何が言いたいのか。本というものが、この地上と空、現実と虚構のあいだで両者を結ぶ何かであるように私には思える、ということです。