*この連載は seikanet(骨董通販サイト)の関連企画です

11 瓦経





小学生の頃に学級文庫で読んだ五島勉の『ノストラダムスの大予言』によれば、1999年の7の月に空から降臨する恐怖の大王により人類は滅亡するはずでしたが、どうやらそういう事態に陥らずに済んだことで、自分などはこうして今回の文章を書くに至っております。終末予言がもたらす暗く甘美で冗談交じりの雰囲気は、世紀末の不安と喧噪を彩り、人々の気持ちに仄暗い影を落とす要素として機能していた、と今となってはそんな気がしています。およそ千年前の世を席捲した末法思想も人心にそんなふうに作用したのかもしれないと考えると、今回の瓦経に対する理解が思いもかけず深まるかもしれません。

というわけで、年画、版木と来て、今回は瓦経(がきょう)。平たい物へのフェティッシュが小松さんにあるのか、フィギュア的な立体物が周到に(あるいは無意識に)避けられた選択が続きます。硬質でフラットな物体に文字が刻まれた質感は、ブツとしても魅力的で大いに所有欲をそそられますが、こうして honogra で日の目を見ているということは、貴族たちの切なる願いはみごとに踏み躙られているわけです。なにしろ本来であれば56億7千万年後の弥勒による世の救済まで地中に眠っているべきだったところを、こうして人目に晒されているわけですから。

末法思想というのは、仏法が衰えて釈迦の教えが正しく広まらなくなり、悟りを開く人が現れなくなる世の中で、その後の世界は衰弱の一途をたどるとされる考え方です。そんな世界にあって、善行を積んで極楽浄土に往生しようと、平安時代の貴族たちは塚を造営してその土中に経典を埋めることをもって作善行為と見なしました。紙本の経典では朽ちてしまうので、さらなる永続性を願って、粘土板に錐や箆で法華経や般若心経を彫りつけて素焼きしたものが瓦経です。永続とは具体的には、菩薩から如来に進化した弥勒が出現し末法の世を終わらせるまでの時間、それがすなわち56億7千万年です。なのに、千年も経たないうちに読売ランドの町の一画に並ぶ羽目になったのでした。

ピンのものを一つ持ちそこにイデアを見出す理想主義者と、ある程度の数量を揃えて比較分析を愉しむ実証主義者に骨董業者を分けるとしたら、小松さんは明らかに後者です。美的好奇心を満たすに足る完品ひとつを求めてやまないという態度を彼は取らない。たとえ欠片であろうと、というか、むしろ欠片であることの現実感を喜んで享受しています。物量に囲まれて平然としていられるというのは、度量の大きさを表していると思います。実は平然としてないのかもしれませんが、もはや在庫が倉庫に入りきらないとか言ってるわりには、嬉々として物を買い続けているのを目の当たりにすると、なにか常人には計り知れない精神構造を有しているのではないかと疑ってしまいます。創作で譬えるなら、バルザックとか手塚治虫のような、質と量の巨大な両輪をグワングワン回し続けている作家のイメージです。ただ、量を捌く人は得てして右から左に物を動かすことを本領としがちですが、小松さんはそこは良しとしないところがあって、売るからにはある種のコンテクストを準備して、その背景を共有しつつ手渡したいと思っている節があります。そのあたり、実はイデアリスト的でありながら、かつ実地での労を厭わないポジティヴィストでもあるという二律背反を一身に背負った多数多様体であります。精緻な理論家でありながら実戦本位を旨とする人物として、我々はブルース・リーを知っていますが、小松さんもその系譜に属する者かもしれません。世界の現況はまさに末法の世と言っていい情勢ですが、ブルース・リー的なアティテュードは今生にひとすじの光をもたらす存在となるかもしれません。などと言ったら、ちょっと小松さんを持ち上げすぎでしょうか。そのぶん次回は落としましょう。



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