5月中旬、ふとしたことから琉球張り子を作る豊永盛人くん(第2回)と那智の滝を見に行くこととなりました。

個展のため彼が福岡に来て、一緒に酒を飲んでいたところ、突如として、風景って飽きる、と言いだしたのです。以前から僕も同じことを思っていて、どんなに素晴らしい光景であろうが、5分も立っているとなんだかそわそわしだすのです。見る、というのはもういいから、別のことがしたくなる。そういえば吉田健一も「寂しくて、腹が減っている上に碌に飲めもしない時の名画、大建築、風光明媚などが何だと言いたい。変に気持ちをいらいらさせるだけで、そんなものは何もないよりもなお悪い」と書いていますが(「旅と食べもの」『新編・酒に呑まれた頭』所収)、こちらは別に寂しくなくても割とすぐ飽きる。ただ、那智瀧図を教科書で見て以来、那智の滝だけは実物を見たくて仕方がない、と豊永くんが続けるので、確かにあの絵は良いね、僕も実際の滝は見たことないし、じゃあ今度、大阪に集まって行こうか、ということになりました(この馬鹿馬鹿しい企てに付き合ってくださった岡山民藝振興株式会社の仁科さんに、この場を借りて深く感謝します)。

で、結果についてですが、ちょうどその直後、松本でお会いした金沢百枝さんにその顚末を話したところ、次のようにまとめられてしまいました。





そう、那智の滝でも5分で飽きた。まさに神韻縹渺、素晴らしかったんですけれども。別に観光化された、俗化されたからつまらない、などという訳でもないので、大阪まで車で4時間ほどの長い道のりを、なぜ僕らは那智瀧図には飽きないのに、那智の滝には飽きたんだろう、と話しながら戻りました。そして出した結論は、那智瀧図は複数の視線と時間によって描きあげられているけれど、滝を見る僕らには一対の目、一つの時間しか与えられていないからではないか、です。

つまり、那智瀧図と実際の滝を比べると、那智瀧図に描かれたように水が落ちる位置にフレームを定めると、下で飛沫があがっている様子が見えるはずはない。岩峰にかかる月の位置にしても然り。熊野三所権現のひとつ飛瀧権現を観想するための宗教画だからとか、宋元画の影響を受けたからとか、いろんな理由はあるのでしょうが、いずれにせよ那智瀧図は「写実的」な絵ではなく、李朝の文房図と同じように、複数の視点が合成されている。右から見た滝と左から見た滝、上下左右の視点が同時に含まれ、また同時に、水量や気候の変化、時間の変遷も織り込まれている。那智の滝をめぐる過去未来の全てがこの絵に描かれている、と言ってもいいでしょう。そういえば、この絵についてアンドレ・マルローは、"L' intemporel"(非-時間的)と題した文章で言及していますが、このマルローの言葉に加え、僕としては「非-個人的」とも言いたいのです。これまで那智の滝を見た一人一人が得たすべての時間と視点が含まれていて、誰か特定の一人の視点に帰すことができない、その必要もない、という意味での「非-個人的」、言い換えるならば「多-個人的」です。

僕らはきっと、自然そのままを美しいと見ているのではなく、誰かの手によって整理された「非-個人的」な視点から、自然を美しいと感じている。しかも、自分の目に任せているだけでは、「今」しか見ることができない。けれど絵画は、複数の人が得た視点と時間を圧縮することができる。対象にまつわる出来事や言説、信仰や感情を圧縮することができる。同時に人はまた、その絵画を見ることで、圧縮された視点と時間を展開することもできる。目に映った美しさ以上の美しさを得ることもできる。今を超え、自分より大きな世界を見せてくれる、非-時間的・非-個人的な圧縮展開を行い得るもの、これこそ「工芸的なもの」なのでしょう。

那智瀧図と杉本博司氏が那智の滝を撮影した作品を比べて考えるのも良いかもしれません。那智瀧図を踏まえてフレームを定め、長時間露光を駆使して「光のなかに消えていく剣の刃」(ミシェル・テマン著/阪田由美子訳『アンドレ・マルローの日本』)であるかのように撮影しつつ、できあがった作品は那智瀧図とは似て非なるものとなる。もちろん氏の作品がつまらないという話ではありません。どれほど那智瀧図を参照し、マルローの言説を踏まえて「滝の記号」であろうとしても、カメラが構造として人の目の「うつし」である以上、目と同じく、今という時間・一つの視野という限界を抱えていて、終いには「個人的」な作品に還元されてしまう、という話です。

逆にいえば、例えば月、というものには、古今にわたり僕らが見てきた視線、僕らが積み上げてきた表現、すべてが詰まっている。だからこそ、僕らは月を見て飽きることはない。月はすぐれたインデックスなのであり、その索引を紐解いて僕らはどこにでも行くことができる。しかも、見上げれば月はいつもそばにいてくれるのです。吉田健一を再び引くならば、「大家が書いたから名作だという絵は沢山あっても、酒の肴にしていい気持ちになれる絵はなかなかないもので、初孫を飲む合間にこの屏風を眺めていると、やはり絵は見るものではなくて使うものだという感じがしてきた」(吉田健一「羽越路瓶子行」『新編・酒に呑まれた頭』所収)ということでしょうか。どんな見事な自然であれ、僕らは身のそばに置いて使わなければ、その美を楽しむこともできない。それはまた、使うとは何か、という話にも繋がってゆくでしょうが、これはまた、いずれかの機会に。

『那智瀧図』 根津美術館蔵
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10001


前の記事へ  次の記事へ

高木崇雄 takao takaki

「工藝風向」代表。1974年高知生れ、福岡育ち。京都大学経済学部卒業。2004年に「工藝風向」設立。柳宗悦と民藝運動を対象として近代工藝史を研究し、九州大学大学院芸術工学府博士課程修了。福岡民藝協会事務局・日本民藝協会常任理事。「青花の会」編集委員。
foucault.tumblr.com


1 鈴木召平の新羅凧 201702

2 豊永盛人の琉球張り子 201703

3 厨子甕(じーしがーみ)201704

4 藤枝守『植物文様』201705

5 石川昌浩の硝子 201706

6 那智の滝にて 201707

7 小石原と小鹿田 201708

8 聴く、解く 201709

9 HPEの豆敷 201710

10 春山慶彦・YAMAP 201711

11 珈琲美美・森光宗男 201712

トップへ戻る ▲